今夜は眠れ、な、い
なんというかまあ平和なのは良いことだ。
言ってもまだこのマンションへ戻ってから3日しか経っていないのだけれど、それでも平和だなあと感じる今日この頃、私はそろそろ動きだすことにした。
「バイトをしようと思うわけです」
「へえ、そう」
我関せず顔でそう言った折原さんは、たった今持ってきたばかりの紅茶を手にとって口へと運んだ。
「ユウキ、紅茶淹れるのうまくなったね」
「本当ですかそれでバイトのことなんですが」「やめときなよ」
カップを元の位置に戻してパソコンと向き直りながら、さらりと言われた。予想通りの返答でむしろ安心してしまう。
もちろん勝手にバイト探しへ出て行くことも考えていたのだけれど、ばれたときの説明が面倒なので正面突破で行こうと決めていた。
そもそもこの間ここを出て行ったのはそういうものが嫌になってしまったからで……それを分かっていない折原さんではないと思うのだけど。
多少は物分かりがよくなっていると思っていたんだけどな……。
小さく息をついてから、とりあえず理由を尋ねてみた。
「バイトって、つまりはここを空けるってことだよね。君がいない間は誰が雑用をすると思う?波江さんだよ?頼むなら君から頼んでね」
「波江さんが承諾してくれたら、いいってことですか」
「彼女が承諾するって本気で思ってる?」
「思ってません」
思わず即答してしまったが、絶対に波江さんは首を縦に振らない。この前のことでただでさえ頭が上がらない状態なのに……むしろ初対面からずっとだけど。
「だから、やめとけば?って言ってるんだよ」
折原さんはパソコンから目を離さず、できの悪い子を諭すような調子でそう言った。
「することはして出ていくつもりなんですけど」
「紅茶がなくなるたびに戻ってくるならいいよ」
「それ無茶振りって言うんですよ」
「じゃあ、駄目」
じゃあって何、じゃあって。頷けるわけないじゃないですか、どこ○もドアなんて持ってないんですよ私。
とにかく折原さんに許すつもりなんて全くないらしい。けれど、私だってこういう点に関してはもう譲りたくない。
静かに息を吐いてから折原さんと呼んでみると、思った通り視線はくれずに「次はなに?」と言われた。
「私が今年でいくつになるか知ってますか」
「21」
「そうです、一般的に健康な21歳が学業もせず仕事もしないでいることを何と言うでしょう」
「引きこもり?」
「他にもアルファベット四文字とかありますけど……とにかく私はそういう肩書背負っちゃってるんですよ」
「いいじゃん、ひきこもってても」
「よくありません」
どこも良くないよ、一応成人しちゃってるんですよ私。いつまでも折原さんに甘えているわけにもいかないし、もしものときのために貯金もしておきたい。
ちなみにこの場合のもしもはまたここを出ていくことになった時や本気でここを出ていくことになったときのことを指す。
ふたつは似ているようで全く違った意味なわけで、できることなら後者の可能性はあまり考えたくない。
それに、正臣くんとの約束がある。果たさないわけにはいかないのだ。
「だからさ、ここで家政婦もどきの仕事をしてくれれば、少なくともアルファベットの方は省けるんだって」
「それだと意味ないんですよ」
「意味なんてなくていいんだよ」
画面へと視線を固定したまま折原さんはそう言い、何か言葉をつづけようとして一度閉口した。
「ごめん、今のは言い間違えだから忘れて。とりあえず、君がここにいてくれたら波江さんも俺も助かるって話」
言い間違えと言うよりもうっかり本音を言ってしまったという感じに聞こえた。
確かに折原さんにはなくてもいいかもしれないけれど、私には必要なことで凄く重要なことだ。
私は折原さんとの関係をぐちゃぐちゃにしたくないから頼りすぎてはいけないし、自分で立たなければいけない。どちらの個も確立していなくては真っ当な関係など築けるはずがないのだから。
それとも、真っ当なんてものを望まない方がいいのだろうか。
私はそういうものを望んだときに限ってあっさり裏切られてしまうというジンクスを持つ傾向にあるから、そうなるぐらいなら現状維持に努めるべきなのかもしれないけれど、
それでは今までと何も変わらないから私は前向きに進もうと思います、はい決定。
「定期的なお茶くみ以外の雑用全般は今まで通りしますし夜中の仕事も手伝いますから――」
早口にそう言い終え、何かを察してくれたのか折原さんがやっと視線をこちらへ向けた時に私は右手を軽くあげた。
「いってきますね」
♀♂
ユウキはいろいろと考えているようで結局衝動的に動いてしまうことが多い。
今度はまた何を思ったのかバイトをすると言い始めて、よく「折原さんは節操がありません」と言っているけれど、君も十分節操がないよと言いたくなった。
まだ三日目なんだけど。こっちは空気を読んで特にこれといったことはしていないのに(目立つことは)、君がそういうこと言うわけ?
なんだかユウキから謙虚とか妥協とか気遣いという言葉が抜け出ているような気がする。誰の影響だ……まさかまたシズちゃんか。本当にあの男は俺の邪魔しかしない。
それに世辞でも何でもなくユウキは自分の仕事をしっかりこなしているし、本人はおどけて言ったつもりだろうが、そんな肩書の心配なんてしなくていい。
だから、外へ出る必要もないんだ。君がここにいることに意味なんてなくていいからそれが当たり前であればいい。
以前のような過度な束縛はしないけど、そこを譲るつもりはない。
自分の見えない部分で何かが起こるのは癇に障る、それは彼女にも言えることでこの間嫌程理解した。
何週間か前に波江へ話していたユウキを外出させたくない理由、あれに関しては杞憂のようなのであまり心配していないけれど。
とりあえず、今まであれ程単独行動をしていたユウキに何も起らなかったことを根拠としている。ああそうだ。
やっぱり本人に知らせて脅かして、罪歌のときのように間接的な方法で出られなくしてみようか。
過度な束縛はしないと言ったばかりだけどまあ、仕方ない。“こういうの”は“そういうもの”だから。
俺なりの心配の仕方だよ。
そう思いながらユウキのせいで全く目を通せていない画面に意識を向けると、しばらく黙っていたユウキが口を開いた。
「定期的なお茶くみ以外の雑用全般は今まで通りしますし夜中の仕事も手伝いますから――」
早口な言葉を聞き終え、今からどういう行動に出るかを察してしまって思わず目を向けると、
「いってきますね」
彼女は軽く右手を挙げてからそれを小さく振って、何も思っていないような淡泊な表情で静かに回れ右をし、すばやく(ほぼ全力疾走で)部屋を出て行った。
玄関の扉が閉じた音が聞こえてから息を吐いて立ち上がる。仕事は……指示だけだして波江にやらせよう。いつもとあまり変わらない気がしないでもない。
「……さて」
ユウキちゃんさ、今回はちょっと勝手が過ぎると思うよ。俺も人のことは言えないんだけど、仕事の邪魔はさすがにねえ……。
とりあえず一晩ほど掛けて認識を改めさせよう、シズちゃんの影響が粉々になるぐらいに。
(今夜は眠れ、な、い)
「……急に、背筋が……」
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