下準備は早めに


 折原さんのところへ帰りたいという気持ちが全くないと言えば嘘になる。
 確かにいろいろと歪で人を弄ぶことに楽しみを覚えるような人だけど、それでも完全に縁を切ってしまいたいなんてことは少しも思えない。
 これはこれであの人の思うつぼなんだろう。でも、本人に気付かれていないならそれだけで十分。

 昨日のチャットで、感づかれた気がしないでもないけど不思議と後悔はしていない。
 たまには素直になってもいいじゃないですか。そして、あれが精一杯なんです。


「別に。なんて、ひどいなあ」


 覚えてくれていたと思うんだけどな。
 あのとき言っていた《言うこと》っていう部分は、そういうことだと思っていいような気がする。気がするだけだと、さすがに虚しいものがあるけれど。
 なら素直さは私の方が何倍も上だ、うん。勝った。いや何の話だよ。

 とにかく、今は帰る気なんてない。本当にどうしようもなくなるから。
 恐いものや苦しいものへ率先して突き進んでいくような人なんてそうそういないのと同じ。あの状態を続けるということはそういうことにしかならない。
 だから、今は、ただ平穏を楽しませて貰おうと思う。なんとかして折原さんと普通に接することができるようになれば、また気軽に池袋へ来ることができなくなりそうだから。
 その前に、やりたいことはやっておかないと。まあ、その前にやるべきことをしないといけない。


「バイトかー」


 先程から池袋の街をうろうろとしながらいろいろなところを回っているのだけど、よく考えてみれば私は今自分の身分を証明する物を持っていない。
 今までやってきたバイトでは必需品だったはずだ……保険証も折原さんのマンションだし。これは無理なんじゃ……。
 そんなことを思って人混みの多い街中を宛もなく彷徨っていると、ある角を曲がったところで人とぶつかってしまった。


「すみません」


 人の多いこの街ではよくあることなので咄嗟に頭を下げて正面を向く。


「あ、いえ!俺の方こそボーとしてて、すみませんでした」


 ぶつかった相手は、男の子だった。背の高さが私と同じ……いや、むしろ私の方が高いか。顔つきも女の子っぽいので小学生と言われても納得してしまいそうだった。
 まあ、さすがに平日の池袋を一人であるくような小学生はないだろうし、中学生ぐらいだろう。どっちにしろさぼりっぽい。
 

「あの、交番に連れて行かれたりはしませんよね?」


 笑顔ながらも心配そうにそう言った彼へ、数回瞬きをしてから「そんなつもりはないけど」少し首を傾げて言う。
 するとその子は安心したように息をついて無邪気に笑った。


「よかったあ……。学校がないからちょっと来てみたんですけど、よく考えたら補導されるかもしれないって気付いたところだったんですよ」
「へ、え」


 私は退路を気にしながら彼の言葉に頷く。
 今までの経験から変に饒舌な人間には必ず裏があると私は見込んでいた。この子もどっかのキャッチセールスの回し者なんじゃないか?
 そんな私の警戒を気に掛けず、少年は屈託なく笑っている。


「お姉さんは、池袋の人なんですか?」
「今はここに住んでるけど……」
「じゃあ、また会えるかも知れませんね」
「……それって」


 さすがに眉を潜めてそう言うと、


「あ、すみません!いきなり馴れ馴れしくして……俺、ちょっと今浮かれてて」


 しかも女の人相手なのに。そう付け加えてから少し恥ずかしそうに俯く。
 ……外見が外見なので少し警戒をゆるめてしまい、溜め息交じりに口を開いた。


「別に気にしないけど、今日はもう帰った方がいいと思うよ。それと、次は友達とか親と来た方が良い。今ここ、危ないから」
「……そういえば、同じ色のものを身につけてる人が多いですね」
「そう、それ。カラーギャングなんだって。だから、絡まれる前に帰った方がいいよ」
「そうなんですか……じゃあ、帰ろうかなあ……」


 少し心配そうに首を傾げているその子に私は頷いた。そうした方が良い、君、絡まれやすそうだから。
 

「……うん。帰ることにしました」
「そう。じゃあ、気をつけてね」


 手を振って立ち去ろうとしたとき、その子が「あの!」大声で呼び止められてしまったので、なんだろうと振り返る。
 するとその子は笑顔で、


「俺、4月からこっちに通学するんです。もし池袋で見かけたら、声掛けてもいいですか?」
「……別にいいけど。もしかして高校入学?」
「はい、来良に」
「へえ……」


 っていうことは、4月から正臣くんや杏里ちゃん、帝人くんの後輩になるんだ。
 少し驚きながらそう頷く頃には、すっかり彼への警戒心は薄れていた。


「あ。なら、自己紹介とか今した方がいいですよね?」
「でも……私、その頃にはこっちいないかも」
「それならなおさら今しちゃいましょうよ。なんか、お姉さんの名前覚えておきたいんで」


 そんな照れた顔で言うものじゃないよ君。新手のナンパ術?
 そう思いながらも息をつき、まあ名字だけならいいかと教えることにした。
 この街で名字よびをされることは滅多にないし、何かあっても名字だけなら誤魔化せるかも知れない。


「私は野崎」
「名前は何ていうんですか?」
「今度会えたら教えるかも」
「かも、ですか……じゃあ、次は俺ですね」


 少し残念そうにしてから、すぐに笑みを浮かべてその子は自分の名を名乗った。


「俺は、黒沼青葉です」


 覚えて置いてくださいね。
 付け加えられた言葉に頷いてから、私たちは今度こそ別れた。

 黒沼くんか……まあ、覚えておくだけ覚えておこう。



 (はじめましてをするために)



「ちゃんと、覚えていて下さいね」

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