君僕限定幸福論
あなたは幸せですか?
そう誰かに聞かれたとして、今の私なら一体なんと答えるだろう。
恐ろしくて仕方がなかった過去とも向き合えるようになり、周囲に気のおけない人がたくさんいる今の私は、なんと答えるのだろう。
幸せであることに罪悪感を感じないと言えば、まだそれは嘘になる。私がここにくるまでの道のりで、犠牲にしてきたものはあまりにも多い。
だから、素直に頷く事は決してしないだろう。
でも、それはこれからの私の行動と時間が和らげていくものだと思っている。
過去の全てを飲み込んで、折り合いをつけられるだけの時間があれば、躊躇いながらも頷く事はできるようになっているはずだ。
後悔している自分に甘えていてはいけない。もう前に進むと決めたのだから、いずれ幸せを感じるだろう自分を認めなくてはいけない――。
そう、私は思っていた。
思っていた、けれど。
「俺は君を幸せにはしない」
折原さん――。
この一年間私の一番傍にいた折原臨也さんは、微かに漏れ出てくる病院の明かりの下、そう言って見慣れた笑みを浮かべた。
その人が病院の裏口から出てきたのは、ほんの五分ほど前のことだった。
私の存在を知るわけもない折原さんが、声をかけた私に対し平然としていたことには多少驚いたけれど、何でも二階の窓からは容易に姿を見つけられたらしい。
それでも少しぐらい驚いてくれたっていいじゃないかとも思ったが、折原さん曰く「これで確信が持てた」そうで、そのことを純粋に喜んでいる風だった。
数日ぶりの再会にしては、あまりに呆気ないものだったと思う。何故か折原さんは異常にテンションが高いし、意味の分からない発言もしばしばあった。
でも、私達の関係はこういうものだと思うから、これがらしい「再会」なのだろう。感動的フィナーレを迎えるわけでもなし、折原さんが変なのはいつものことだ。
そう思ってふと気を緩ませた時だった。
折原さんが私を幸せにしないと言った。
「君と全人類を天秤にかけたとしても、俺は君だけを選んだりはしない。俺は自分の人生を君のためだけに使うつもりもない。もう自覚はしていると思うけど、この先も俺と一緒にいるなら不運な目に遭うのは間違いない。最悪の場合、俺の播いた種の所為で君は殺されるかもしれない。俺はそれだけのことを、してきたからさ」
私から1メートル程距離のある場所でそう言う折原さんは、拍子抜けするほどいつも通りで、怪我をしている身体とか、話している内容には、少しも合っていなかった。
どんなときにでも浮かべているその微笑が、ポーカーフェイスなのか、それとも素で笑っているだけなのか。その答えを私は知らない。
そうして痛みと瞬きを忘れて顔を見上げている私に、折原さんは続けて笑う。
「だからと言って、君を手放すこともしない。手放さざるを得ない状況にもさせない。君を選べない選択肢も作らせない。君を殺そうとする人間がいるなら、俺が先に消してやる」
「…………」
「――っていうことを、ついさっき思ったんだ」
ねえ、ユウキ――。
「君さ、一か月前に言ったよね。俺の近くにいたいって。その時は俺も頷いたけど、実のところ確証は持ててなかったんだ。君だけを選べるほど、俺は単純な人間じゃなくてね。
でも、今日君の姿を見て確信した。今回ばかりは俺も自分を騙してない、今回こそは間違ってない。俺の行きついた結論は本物だ。
君に、傍にいてほしいんだ。
これまでと変わらなくていいから、俺の傍から離れないでほしい。幸せにするだなんて無責任なことは言えないけど、俺は君といられるなら、そのことに関してだけはどんなことでもするよ」
――傍にいてほしい。
初めてかもしれない明確なその人の言葉に、私はやっと瞬きをして、口を開く。
「私の幸せは、私が決めるものです」
聞きなれない声色で話されたそれは、その人の言うとおり本物の言葉だと信じることができた。
いつも変わらない調子だから、こういう時の変化こそ逆に分かりやすいのだ。
このことだって、一年以上かけてやっと分かったものだから、まだまだこの人について知らないことは沢山ある。
どうして折原さんがそう考えるようになったのかも、すぐさま察することなんて私にはできない。
でも、傍にいてほしいという言葉だけは、本当に嬉しかった。
「今までも好きで一緒にいたのに、どうして今から幸せになれないだなんて言うんですか」
自然と笑みを浮かべた私に、折原さんは少し意外そうな顔をする。
――だって、私も貴方も、それを諦めるには早すぎるから。
「折原さんが幸せにしてくれなくても、私はきっと幸せになります。好きで傍にいる人と一緒にいるなら、不幸になんてなれませんよ」
傍にいてほしいと言われるだけでこんなに嬉しいんですから、意外と幸せは近いかもしれません。
「それに、好んで私の傍にいてくれるなら、もれなく折原さん自身も幸せになれます」
「……なるほどね」
折原さんはそう頷いて、可笑しそうに小さく笑った。
この先この人と一緒にいることで、意見が食い違う事も、危険な目に遭う事も、もちろんあるとは思う。
でも、そんなことは今に始まったことではない。意見の食い違いなんて日常茶飯事、危険だなんて私の人生にはいつも付き纏って来たものだ。
折原さんともいろいろあったけれど、あったことを忘れてなかった事にもできないけれど、今はこうしていられる。
だから、これからもそうしていられるように――
「じゃあ、お互いの幸せのために、一緒にいようか」
「はい」
私はその人の言葉へ頷いた。
♀♂
「……貴方って、自分の彼女まで平気で騙す人なんだね」
静かに眠っているユウキの様子を眺めていると、病院内で待たせていた彼女が苦々しげに声を掛けてきた。
声をかけるまでは中にいてほしかったのだが、ユウキと鉢合わせしなかっただけマシだろうか。
そう考えて背後へ振り向けば、思っていた通り薄暗い暗闇の中でも彼女の侮蔑の表情が見て取れた。
「心外だねぇ……。今までのやりとりをどう見れば、そんな風に解釈できるんだい?」
「甘言に騙されて貴方を信用したその子に、睡眠薬飲ませて眠らせて……放って行くようにしか見えない」
「それは君がこれからのことを知ってるからじゃないか。ちなみに言えば、飲ませたのは睡眠薬じゃなくて、彼女の持っていた眠気を伴う鎮痛剤」
それも彼女が自分自身で飲んだものだ。
痛みがあるならこっちのことは気にせず飲めばいいと言ったら、ユウキは少し迷った後、それを口にしただけの話。
それなのに彼女の言い方ときたら、まるで俺が無理やり薬を飲ませて、眠ったユウキを放置していくみたいじゃないか。
「……でも、放って行くんでしょ」
「放って行きはしないさ。君も聞いてただろ?俺に彼女を手放す気はない。もし拒絶されたとしても、放すつもりはない程度にね」
余程疲れていたのか、全く起きる気配のないユウキの頬に手を当てがってそう答えても、彼女からの罵倒は途絶えそうになかった。
「ごめんね、ユウキ」
背後から聞こえる言葉を聞き流して、目を閉じたままの彼女に謝罪を口にする。
決して放って行くわけでも、置いて行くわけでもないんだ。ただそれでも天秤は水平で、君以外に求めている物のために一度離れなくてはいけない。
それは結果的に君のためになることでもある上、やっぱり身体を壊している君は連れていけない。無茶をさせるのも可哀そうだ。
「君にずっと渡さなかった物も、持ってくるよ」
そうすれば、君も少しは過去から抜け出す事が出来るだろう。
君を引き止めるために、もうあの子を利用する必要はないのだから、出し惜しみすることもない。
『過去』に思い煩う事がなければ、『今』へもっと目を向けてくれる。あの言葉に頷いてくれた君には、それが必要なんだ。
ほんのりと温かい彼女から名残惜しいながらも手を放し――
「またね」
そう呟いて、病院内にいる人年に彼女を見つけてもらうため、携帯電話を手に取った。
(君僕限定幸福論)
ハッピーエンドは、すぐそこに――?
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