真夜中の決断

 5月5日 午後9時 某所

 

「……車椅子って、こんなに……大変だったっけ」


 肩で息をしながら明らかに暑さからくる汗とは別種のものを額に浮かべて、私はようやく目的地へと辿りついた。
 もう動きたくないと言いたげな腕を無理やり動かし、眼深く被ったニット帽を押し上げる。
 すると急に視界が開け、まだ明かりの灯っているその建物が、やけに眩しく映り込んだ。
 まだ消灯時間は迎えていないのか――。そう思えば安堵すると同時に、今からどれだけ待たなければいけないのだろうと溜息が洩れる。
 
 今は痛くないけれど、それも時間の問題だから、早く出てきて欲しい。
 更に我儘を言うならば、出来る限り私の目を付けている場所から出てきてもらいたい。 

 こういうときに携帯電話がないと不便だ、なんて思いつつ再度息を吐いて、扉からは死角の場所へと移動を始めた。
 あの人を見つける前に私が誰かに見つかってしまったら、それこそ本末転倒だ。さすがに慎重になろうと思う。
 ……どの口が慎重だなんて言葉を言うのかと、いろいろな人に怒られそうだけれど。 

 数年ぶりに乗った車椅子をどうにか操作して、思っていた場所へ辿りつくと同時に、フッと建物内の明かりが大部分消えてしまった。
 消灯時間になったらしい。それでもまだ出てきてはくれないだろうなんて、売店で買った安い腕時計を見ながら考える。

 この待っている間に、途中で痛みが出てきてしまったらどうしよう。誰かに見つかってしまったらどう説明しよう。

 不安に思うことは数多くあるけれど、それでも私は今日中にあの人に会っておきたかった。
 どうしてここまで必死になる必要があるのか――。
 不意打ちを狙うためと言うのもあるにはあるけれど、別に本命の理由がひとつあった。

 ――だってもし、今日会えなかったら、


「折原さん、私を置いていくでしょ」



 ♀♂



 5月6日 午前2時 



 消灯時間をとうに過ぎた病院内の一室で、臨也はただベッドの上で何者かの来訪を待ちうけていた。
 別段誰が来ると言う確証はない。むしろ、心当たりが多すぎるため、誰が来てもおかしくないと思える状況だった。

 折原臨也が不特定多数の人間から恨まれていることなど、もはや周知の事実である。
 職業柄様々な人間の弱みを握り、それを手綱とすることもあれば、誰かに売り渡して金を稼いでいるのだ。そうなることが当たり前だろう。
 かと言って慎重に素性を隠すこともしていない。よって当然、その怨恨は直接種をばらまいた本人に向けられる。
 取り分けこの数日間は様々な因果を撒き散らしていたのだから、その誰から報復を受けようと何ら不思議ではない。

 ロシア人の二人組か、バーテン服の化物か、刀を携えた人間とは言い難い少女か、暴力団関係者か、それとも紀田正臣や矢霧波江、もっと他の人間がやってくるかもしれない。
 誰も来ないなら来ないで、それは今日偶々運が良かっただけだろう。病院に長居をすればするほど、決して穏便ではない目的でそんな連中がやって来るのは目に見えていた。
 
 これはもちろん、臨也自身も自覚済みの事だ。
 自分の繰り返してきた生産性のない行動に、どれだけの人間が苦しんできたかも知っている。今まさにそうしているだろう人間の心当たりなんて、全てを思い出せない程に大勢いる。
 そして、そんなことで利益を稼いでている自分がどれほどの外道であるかということも理解していたが、そんな自分よりも更に救いようのない下衆の存在もまた彼は熟知していた。
 
 それでも尚、折原臨也は人間を愛している。
 だからこそ、折原臨也は人間が愛おしくて堪らない。

 彼の行動基盤であるその考えは誰にも覆すことなど出来なかったはずだった。
 しかし、彼がこの数日悩んでいる通り、彼女の存在だけが靄をかけていた。
 その彼女に自分の最優先にしてきた事柄が原因で、怪我を負わせてしまった事――それに後悔を覚えた自分にも臨也は気が付いてしまったのである。 

 そうして散々、嫌々ながらも彼女について真正面から考えた結果、彼はしばらく彼女と距離を置くことに決めた。
 
 ――元々、ここまで長期間、一緒にいるつもりはなかったんだ。

 明かりの消えた病室内で、そう自分へ言い聞かせるように思考を巡らす。

 ――どうせいつか気付かれるなら、こっちから離れた方が良い。

 彼女に糾弾されるのも、嫌悪のこもった視線で見つめられるのも、あからさまに拒絶されるのも、気分が悪い。
 これ以上どちらともつかない問題について悩みたくもなければ、また彼女を殺されかけるような状況に置きたくもない。
 そもそも二年前とは違うのだ。彼女を助ける人間などいくらでもいるだろう。後のことはその連中に押しつけてしまえば、もう自分の出る幕はない。
 
 ――まるでペットの置き去りだ。

 息を吐きながらそう纏めることで、せり上がってくる言葉を飲み込んだ。
 

  
 それからも来るかどうか分からない来訪者を待ち続け、午前3時を回ろうとしたとき。
 ずっと無音だった建物内に響く、明らかに病院関係者のものではない足音を臨也は耳にした。
 その手の専門家とは到底思えない素人のそれではあるが、自分の存在を気付かれまいとしていることは容易に推測できる。
 常日頃自分を追いかけまわしている男のものでもない――やはり粟楠会の関係者か、紀田正臣だろうか。

 彼がそこまで考えた時、ゆっくりと病室の扉が開いた。

 そうして入室してきた人影に、臨也はやや虚をつかれた表情を浮かべる。
 入室者は若い女であり、陰鬱とした表情を浮かべながらも、その強い眼差しで臨也を睨みつけた。
 彼女はやっと見つけたと言って、憎しみと狂喜の入り混じった笑みを浮かべたが――。


「ええと、あー」


 当の臨也は不思議そうに首を傾げ、


「……君、誰?」


 
 ♀♂



 5月6日 午前3時半頃 病院裏口前


 
 この調子でいけば、外で朝日を見ることになりそうだ。

 頭の中ではそう呑気に構えていたが、さすがに無茶だったかなと今さらのように思い始めた。
 2時過ぎから再発し始めた痛みの所為で眠気は皆無に近い。こんな状況で寝ろと言う方が無理な話だろう。
 かと言って持ってきている痛み止めを飲んでしまえば酷い眠気に襲われるのだから、本当にどうしようもなかった。
 
 とりあえず、夜明けまで粘ってみよう。
 その辺りは用心深い人だから、移動するなら夜中のうちにしてしまうはずだ。


「……これで別の所から、出て行ってたら」


 いや、その可能性は虚しすぎるから……考えないでおこう。 
 そう思いながら身体中に響く痛みを深呼吸で紛わせ、私は僅かに目を伏せた。  
 

「……まだかな、折原さん」



 ♀♂



 5月6日 午前3時過ぎ 病室



「うふふ……いい気味だね……あの時とは逆……。動けないのは貴方。生きてるのは私」 
 
 
 ベッドの上に両膝で立っている彼女は、そう言って手にしたナイフを臨也の首筋へと当てた。
 対する臨也は彼女がベッドに着地した振動に傷口を刺激され、眉をひそめながらも疑問に思う。

 ――あの時……って……何時だ……。

 女の顔や言動に何か引っかかりを感じるものの、具体的な事は少しも思い出せない。
 そうして臨也が黙っている間にも、彼女は微笑みながら言葉をつづけた。


「簡単には殺さないよ……。貴方は、あの世って何もなくって、苦しむとかそういう感覚もないって考えてるんだよね……?だったら、生きてるうちに苦しまなきゃ?ね?」


 相手の狂気を孕んだ言動に対して、普通の人間ならば恐怖でまともに返答すらできないだろう。
 しかし、臨也は恐怖を覚えるどころか、彼女の言葉によって衝撃を受けた。
 なぜ自分があの世の話を持ちだしたのか――それを考えてみれば、過去の記憶が次々と引き擦り出された。

                       ――あれは、確か……。

           ――……そうだ………!あれは、1年前……!

 ――ユウキを連れだした出先で、竜ヶ峰帝人に初めて会った夜の……!
 

「それに……あの時一緒にいた、ショートカットの子……貴方の彼女なんだってね……。あんなの見せて、何がしたかったの……?それとも、二人して……そういう趣味だったとか……?」

 
 だったら、その子も貴方と同じようにしないと……。
 そんな女の恐ろしい提案に臨也は何の反応も示さなかったが、心のうちでは靄を払われているかのような心地でいた。

 何故あの時ユウキをあの場へ連れて行ったのか。
 どんな理由で彼女にあの光景を見せたのか。
 その前日の夜には何があったのか。
 どうして彼女と再会したのか。
 彼女の友人を犠牲にしてまで、何を得ようとしていたのか。
 
 ――ああ、思い返してみれば、こんなに簡単なことだった……!


「ねえ、貴方悲鳴を上げないの?上げてもいいよ……貴方を人質にとって、明日のニュースで貴方に恥をかかせるのもいいかもね。女に殺されかけてる、新宿で情報屋を気取ってる裸の王様……ってね。
貴方の大嫌いなバーテンダーさんは、大喜びしちゃうかな?貴方を好きなあの子は、幻滅するかな?」


 相変わらず微笑みながら尋ねる女に、臨也は傷口の痛みも忘れて晴れ晴れとした笑みを浮かべた。


「いやあ、シズちゃんはそもそもニュースとか見ないよ。苛立つ事件とか見るとテレビ壊しちゃうからねぇ。あの子に至っては、幻滅のしようもない――今さらすぎてね」


 そう言うや否や身体を跳ねあがらせ、点滴の針が抜けるのも厭わず女共々ベッドの下へと転がり落ちる。
 すぐさま体勢を立て直そうとする女を慣れた様子で組み伏せた後、馬乗りになりながらナイフを奪い取った。


「君も何か齧ってきたみたいだけど……。ちょっとだけ鍛錬不足だったねえ」


 まるで先程の女と同じように微笑みを浮かべた臨也に対し、女は侮蔑の表情を露わにした。


「……殺せばいいよ。そしたらあんたは殺人犯だ。あの世なんてあるかどうか解らないけど、少なくとも死ぬ瞬間までは、あんたが無様に警察に追われる姿を想像してあげる」
「殺す?殺すだって?そんな馬鹿な!」


 ケラケラと笑う臨也は、周囲を全く考慮しない声量で叫び続ける。


「そんな事!そんな事はしないさ!自殺志願者を殺すほど、俺はボランティア精神に溢れてるわけじゃないんでね!」
「……へえ、思い出してくれたんだ」 


 女はそう言うが、臨也は正確に女個人のことを思い出したわけではなかった。
 ただ覚えているのは、去年の春に興じていた『遊び』に付き合わせた人間だと言う事だけ。
 ユウキを連れて行った理由だって、純粋に彼女の反応を見てみたかっただけなのだ。
 十分に壊れかけている、不安定な彼女をさらに追い詰めて、その様子を眺めていたい。それだけの理由だった。

 しかし、そんな取るに足らない存在だった目の前の彼女も野崎ユウキも、今ではまるで別人――。

 その事実は、臨也の心の奥に埋もれていた爆薬を弾けさせた。  


「ハハ……ハハハハハハ!ハハハハハハハハハハハハ!」


 ――それこそ馬鹿馬鹿しい、俺は何を迷っていたんだろう!


「そうだ。ああ、ああ、そうだ!取るに足らない君だ!だが、生ぬるい自殺志願者に過ぎなかった君が、俺に殺意を抱き、それを1年以上も滾らせ、ニュースから僅か半日で居場所を割り出し、この場所にやってきた!ユウキだってそうだったんだ!すぐに壊れるとばかり思っていたのに、今じゃあれだけ恐れていた過去さえも清算しようとしている!君達との二者択一を迫られるなんて思ってもいなかった!」
「…………?」


 相手が何を言っているのかも、急に出てきた見知らぬ名前も理解できず、女は訝しげに臨也を見上げた。


「そう、君はここに来た!ここに来たんだ!そしてここまで俺を悩ませたのは、紛れもなく彼女だ!君がどうしてここにやって来たのかも、彼女がどうして同じ場所にいようと思うのかもわからないが、こんなに素晴らしい事があるか!?君達は、俺の予想を裏切ったんだ!」


 そうして臨也は女の腕を引いて立ち上がり、ひどく喜んだ様子で混乱している彼女の身体を強く抱きしめた。


「おかげで……そのおかげで、俺は思い出せた!初心に返る事も、この状況の解決方法も分かったんだよ」


 ――ああ、そうだ。そうだよ。
 ――俺は、あの『首』を手に入れてから――人間を舐めていたのかもしれない。
 ――人間以上の存在があると思ってしまった。


「だが、どうだ!見ろよ俺!思い知ったか俺!ユウキだろうが、彼女だろうが――人間は、かくも素晴らしい!
 こんなに素晴らしいものを手放すことなんて、できるわけがないだろ!?二者択一の必要なんてどこにもないんだ!俺はどちらも手放さない!」
「……」


 ただはしゃぎ続ける臨也に対し、女は何か恐ろしい物を感じたのだが――彼女の変わらぬ憎しみだけは、その恐怖を乗り越え言葉となった。


「良く解らないけど、これだけは言えるよ」
「なんだい?」
「あなたは、最低の人間だ」
「それでいいさ」

 
 心の底からそう思っているかのように、無邪気な様子で臨也は微笑む。


「君達が俺をどんなにどんなに嫌っても――」


 ――君が、万が一これから過去の真相を知ったとしても、


「俺は、どうしようもなく理不尽な程に、最高に最高に最っっっ高に――君達が大好きだ!」




 (真夜中の決断)  
 

 

 君がどう思うおうと、もう手放すつもりはない。

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