池袋の人たちへ
 某月某日 とある廃ビル前



「私がユウキちゃんを信じられなかったら、渡してほしいんです」


 細々とした声と共に差し出されたのは、彼女のものだろう白い携帯電話だった。
 元から付けていなかったのか、他人へ渡すために外したのか、ストラップの類はひとつも付けられていない。
 よく見てみればところどころ白い部分が欠け、そこからは黄土色が覗いていた。

 彼女の言葉に頷く事もせず手を差し出すと、痙攣でも起こしたように震えていた手が微かに触れて、携帯電話を手渡された。
 野崎ユウキへこれを渡したとして、それが一体何になるのだろう。
 そんな趣旨の言葉を尋ねると、彼女は視線を俯かせたまま、


「出せなかったメールを、読んでもらいたくて」


 そう、今にも消え入りそうな声で呟いた。
 なるほど。受け取った携帯電話を眺めつつ、俺は一人頷く。
 出せなかったメール。今日一緒に帰ろうだとか、次の日曜日に遊ぼうだとか、そんな内容だろうか。
 それとも、私が何かしてしまったのか、何か気を悪くするようなことをしたのか――なんて、そんな内容かもしれない。
 
 しかし、そんなものを読んだとして、野崎ユウキ自身はどう思うだろう。
 彼女の思いに気づけなったことを悔やみ、自分を責める姿が容易に思い浮かんだ。とはいっても、野崎ユウキとの面識なんてありはしないのだが。
 
 結局これを読んでもらって、何を思って欲しいのかと訊くと、彼女はそろりと顔を上げた。
 

「ユウキちゃんが助けてくれなかったら、もっと早くにこうしてたんです。私が騙されていただけだとしても、それは変わらないから」


 それが伝われば、いいなと思って。
 そう泣き笑いとしても不合格な表情を浮かべ、彼女はぽとりと涙を零した。
 出せなかったメールの内容は、遊びの誘いでも後悔の念でもなく、感謝の気持ちだったようだ。

 ――いっそ気味が悪い程、彼女は野崎ユウキを憎んでいない。

 それが興味深いようにも、滑稽であるようにも思えた。そもそも、彼女は憎悪を抱く必要なんてないというのに。   
 つまり、彼女はただただ、騙された事が悲しくて死を選ぼうとしているわけだ。そして騙されたと言う言葉も、まだ疑っている。
 
 そういうことで今から、このビルの屋上に上って、最終決断をするらしい。

 それなら本人に聞けばいいじゃないかとも思ったが、疑っているその本人へ尋ねることに意味はないだろう。また騙されるだけかもしれないのだから。   
 これほど疑っておきながら野崎ユウキを憎まないと言う彼女は理解しがたい。それでいて生か死の選択肢しかないというのも、ほとほと理解できそうになかった。

 けれどもまあ、そういう人間がいて悪いことはないだろう。
 理解できるにこしたことはないが、全て分かり切ってしまうというのも面白くない。ああそう思えば、今から彼女が死んでしまうのは勿体ないような気もした。

 
「じゃあ、いきます」


 しばらく続いた沈黙を裂いて、彼女はこちらに背を向けた。
 いつもならば屋上までも付いて行くのだが、今回は例外だ。君の思うようにすればいいよと無責任な言葉を投げかけ、握っていた携帯電話をジャケットの中へと仕舞った。
 
 
「……私が帰ってきたら、それ返してください」


 お願いします。
 再度そう言った彼女は、振り返りもせず廃ビルの裏口の中へと消えていった。


 ――そして結局、彼女が携帯電話を取りに帰ってくることはなかった。


 
 ♀♂




 夕方 東北地方 某病院



 横になりながら考え事をしていたせいか、いつの間にやら眠っていたらしい。
 昨晩の出来事がローカルではなく全国ネットで流されてしまったとすれば、こうも呑気に眠っていられる場合ではないはずだ。
 そう自分の失態に苦笑して、ついさっきまで見ていた夢の内容を思い出した。

 あれは臼谷桃里との最初で最後の会話だ。
 もし自分が自殺を思い留まらなければ自分の携帯電話をユウキへ渡してほしいと言い、結局死んでしまった彼女とのやりとり。
 あれからその携帯電話がどうなったのかと言えば、ユウキを誘い出すためにメールを送信した後、文瀬の元へ渡るように手配した。
 元より彼女の言葉に頷いた覚えはない。そう開き直って、自分にとって都合のいい方法を選択したのだ。

 臼谷桃里が自分を憎んで死んだわけではないと知れば、ユウキはどんな反応をするだろう。
 喜ぶだろうか、それともやっぱり悲しむだろうか。原因は自分にあると言って、責任を感じるのだろうか。

 ――俺がやったことも全て、無かったことにならないだろうか。

 ふと浮かびあがった考えに、苦笑を通り越して単純に笑いたくなった。
 全て話した時点でユウキとの関係は破綻するほかない。あの方法を取った時点でもうどうしようもなくなっていたのだから。

 ――文瀬雪子に騙されて死んだ臼谷桃里やその首謀者と呑気に暮らしていたユウキよりも、俺の方がよっぽど滑稽じゃないか。

 どれだけ御託を並べようとも、結局彼女は俺にとって一人の人間ではなく、野崎ユウキという一人の個人だった。
 目の届く場所にいなければ不愉快で、今この場にいないことが煩わしい。こんな身体でさえなければ、今からでも東京へ戻るだろう。
 昼間に聞いた遠野捺樹の話に対して、心配しなかったと言えばそれは嘘になる。もっと用心するべきだったと、下手をすれば自分ことよりも後悔した。

 そうしてここまで自覚しているにも関わらず、俺はまだ認められない。

 いくらしつこく、くどいと言われても、そう簡単に認められはしないのだ。

 これまで自分の貫いてきたものを否定するそれを。



 ♀♂



 夕方 東京都内 車道



「折原さんが本音をすぐに話してくれるような人なら、私はこんな目に遭ってない」


 被っていたニット帽を外してそう言うと、車を運転している捺樹くんは呆れたように息を吐いた。
 ついさっき折原さんが私の怪我について責任を感じていない、というようなことを捺樹くんから聞いたのだけれど、だから何だというのだろう。
 逆に責任を感じていると言われた方が不安になる。まあ、本心から言ってくれたのだとしたら、嬉しさも多少感じるだろうけれど。
 そもそも、あの人の所為で怪我をしただなんて、それは少し話が違うと思うのだ。犯人はどうしたって篠宮さんでしかない。
 それに、どちらかといえば責任を感じるよりも先に心配をしてほしい。そこも決して、素直に心配しているだなんて言う人ではないけれど。
 

「まあ、いつか言ってくれたらいいよねってレベルの話。あの人はあのままでいるのが一番しっくりくるよ。あくまで私に関してはだけど」


 だから、まあないとは思うが、私が原因であの人のスタンスを潰すようなことはしたくない。
 決して折原さんの趣味を良いとは言わない代わりに、あの人を全否定しようとも思わないわけだ。
 そうでなければ、今までどうして私はあの人の傍にいたのかという話になってしまう。たまには意見の食い違いぐらい起こるけれど、それでも私は好きで折原さんの傍にいたのだ。

 それぐらいであの人を敬遠するほどの細い神経は、もう持ち合わせていない。


「……図太いなぁ、あんた」


 赤信号に従って車を止め、捺樹くんはバックミラー越しにこちらを見やった。


「仕事をカウントせずに言えば、信頼関係なんて掃いて捨てるようなタイプだろ?情報屋って。そんなのとよく付き合えるよ」
「だからってこっちも不信感抱くわけにはいかないでしょう。ここまで来ればいっそ折原さんが引くぐらいの思い切りをね」


 見せつけてやろうと思う。
 さすがの折原さんも今日私が会いに行くだなんて思いもしないだろう。つまりは完全な不意打ち狙い。
 2か月前に一度けりを付けたものの、具体的なあの人の答えは聞いていないのだから、良い機会だ。
 折原さんも私の過去と言えば過去なのだし、これを機にきっちり区切りを付けてしまいたい。そうすれば、後に残るのは文瀬雪子と桃里だけになる。
 
 そして肝心な私の折原さんに対する答えは――――。



 ♀♂



 夕方 池袋 とある歩道



 露西亜寿司の店員から池袋の取り立て屋へと転身したヴァローナは、とある人物について首を傾げていた。
 
 ――数日前の標的が平和島静雄と知り合いだったなんて……。
 ――否、それよりもまず気にすべきなのは、私達以外へも同じような依頼がされていたということ。

 今この時も自分のすぐ前を歩いている新しい上司、田中トムと平和島静雄の背中を見比べつつ、ヴァローナは表情を変えずに瞬きだけを繰り返した。
 昨晩野崎ユウキの身に起こったと言う転落事故(というより殺人未遂だろうか)の話を静雄が彼の上司に話しているのを聞いていたのだが、それがヴァローナにとっては少しばかり意外な話だったのだ。
 てっきりただの一般人だとばかり思っていたが、こんな短期間に複数の人間からつけ狙われるほどの何かを、彼女はもっていたらしい。

 ――もしかすると、園原杏里のような異形の力を持っていたのかもしれない。

 だとすれば惜しい事をしたと、ヴァローナは心の内で落胆した。それならば、単に実家が資産家や権力を有する家柄だという理由の方が良い。
 
 ――加えて平和島静雄があの女性を気にかけているということは……。
 ――平和島静雄の弱点は彼女?

 そう考えたところで、ヴァローナはあることを思いついた。


「先輩、発言の許可を申請します」
「……申請、なぁ。まあ、別に構わないけどよ……」


 振り返った上司二人のうちトムの言葉に許可を得られたと判断して、ヴァローナは淡白な様子で口を開いた。


「私に病院への同行許可を与えてください」
「同行って、ユウキの見舞いにか?」


 不思議そうに首を傾げる静雄に対し、トムはハッとしたような表情を浮かべた。


「やっぱ、気になんのか……」
「無論です。彼女を知ることによって得る情報、それは私に勝利をもたらします」


 ヴァローナからしてみれば、静雄の弱みを知ることで勝算が拓けるかもしれないという意味の言葉だったのだが、
 昼間の茜とのやりとりを見ているトムには恋愛という意味でのライバル意識を公言しているようにしか聞こえなかった。
 当の静雄はしばらく考えるように首を捻った後、


「要するに、ユウキと知り合いたいってことだよな。どっかで会った事でもあんのか?」
「喫茶店にて勤務中の彼女に、客として遭遇しました」
「ああ、なるほどな」

 
 納得したように頷く静雄は、続いて病院に連れて来ても良いという言葉を口にした。
 その返事にヴァローナは内心笑みを浮かべつつ「僥倖です」と呟き、


「ですが先輩、昨晩の出来事を公言するのは、控えるべきです」 


 そう毅然とした面持ちで言い切った。


「そのオリハライザヤという男が原因ならば、周囲に彼女が重症であることを知られるべきではありません。
 オリハライザヤが彼女の傍にいない、彼女は重傷を負い身動き不可能、これは大きなチャンス――オリハタイザヤを恨む人間には、絶好の……」


 と、そこまで言った瞬間、ヴァローナは自分の視界へ映った光景に対し、目を小さく訝しめた。
 彼女から見て数メートル先、信号待ちをしている車のひとつに灰色の乗用車があった。その車自体には何の不審な点もないが、ひとつだけ気にかかる事が……。


「どうした?」


 トムの言葉にその車から目を離した瞬間、信号は青へと変わり、その車も走り去って行ってしまった。


「気のせいです、問題ありません」


 そうヴァローナは言うものの、静雄とトムは彼女の見ていた方へと振り返る。
 しかし、そこにはもうヴァローナの見つめていた乗用車はどこにもない。
 ヴァローナ自身もその一瞬だけ捉えた光景に確証が持てず、気のせいだったのだろうかと自分を疑うことしかできなかった。

 そうでなければ、重傷を負って入院中であるはずの野崎ユウキが外出しているはずがない。
 先ほど見かけた車の中に彼女がいただなんて、静雄の言葉と矛盾する。
 やはり何かの見間違えだろうと判断したヴァローナの考えに反し、この後病院へと向かった静雄達は野崎ユウキが別の病院へと搬送された事を看護師から聞かされた。



 (これから会いに来てくれる人たちへ)



 ごめんなさい。次会う日まで、さようなら。

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