心配の域はすでに超えました
5月5日 朝 来良総合病院
「それで、これ……どういう事なんだろう」
ね。
と、情けない程の小声で呼びかけると、彼はどうにも苦笑気味に「そんな事聞ける状態かよ」と呟いた。
私が横になっているベッドの近くに椅子を置き、頭を包帯でグルグル巻きにしている彼――捺樹君もなかなか痛々しい格好だと思うけれど。
しかし、そんな言葉を口に出して言う気力はさすがになかった。私はついさっき、全身を文庫本か何かで殴られ続けているような鈍い痛みにより、目が覚めたばかりなのだ。
また、私はそんな感覚がしている、というだけで、本当の状態なんか少しも知らない。
普通なら本人が目覚めるまで、病室には誰も入ってこれないはずなのだが、私が目覚めた時そこにいたのは捺樹君のみだった。
つまり、看護師や医者に様態を確かめてもらう前に彼を見つけてしまったのだ。
ナースコールをしようにも、身体が思うように動かないので、自然とこういう状況が出来上がってしまった。
しかし、そんなことよりも。
私がそんなことより気になるのは、誰が捺樹君をここに遣ったのかということだった。
私の記憶が混同していなければ、今日は五月五日でゴールデンウィークの最終日。早ければ今日が折原さんと約束していた日。
おまけに私はこんな状態なのだから、普通真っ先に来てくれるのはあの人のはずだろう。
家族ではない、友達でもない、ただの知り合いでさえない。
当然恋人でもないけれど――それでも、こう言う時に一番早く事を知って、私に何か言い掛けてくるのはあの人だ。
……あの人だと思いたかったというのが、正解かもしれないけれど。
「あんた、痛くないのか。それ」
不意に捺樹君から声をかけられ、
「普通に、痛いよ」
身体動かせないって、言ってるでしょ。
そう付け加えると、彼は若干引き笑いを浮かべた。今日の捺樹君はなかなか表情豊かだ。
「……医者から聞いたんだけどさ。あんた、それ結構な激痛があるはずだぜ?薬で和らげてるにしたって、そんな顔じゃいられないはずだ」
「だから、痛い事は、痛いんだって」
いくら入院・通院経験の多い私だって、痛みなんか少しも慣れるわけがない。ついでに言えば、治療の際に麻酔でも打たれたのか、これ以上なく気持ち悪い。
その痛みや気分の悪さを思えば、確かに私の思考は気味が悪い程に落ち着いている。
昨晩の出来事だって記憶を飛ばすことなく鮮明に覚えているし、二度目の身投げ(られ)の感覚も半ばトラウマが蘇りそうなほどにしっかり思い出せる。
それなのに、こんなにも平然としていられるのは何故だろう。
と言うより、痛みなんかに気を取られている場合ではないと思ってしまうのは、どうしてだろう。
「……折原さんは」
その理由に心当たりのある人の名前を上げると、捺樹君は失笑気味に、
「東北のどっかで脇腹刺されて、入院中」
当たり前の様に、そう言い切った。
――折原さんが刺された。
頭で捺樹君の言葉を理解すると同時に、何かを考えるよりもまず身体が動いた。
あれほど動かせないと思っていた、思うほどに痛いと感じていた身体を起き上がらせて、目の前にいる彼へ掴みかかる。
ただ、言葉は出なかった。
口を動かすよりも先に痛みを思い出してしまい、手を離してベッドに横たわる。
無茶な動作の反動とばかりに押し寄せた痛覚と吐き気を促す気分の悪さには、さすがに耐えきれなかった。
それでも、頭の中では同じ事が回り続けている。
折原さんが刺された。
一体、どういうことだろう。
入院中と言うなら、死んではいない。
死んではいないけれど、刺されたことに変わりはない。
心配だというよりも、心臓を鷲掴みされたような感覚が、私の中でぐるぐると廻る。
私にとってあの人は、家族でも友達でも知人でも恋人でもない。
ただし、私の傍にいることが、当たり前になっている人ではある。
少なくとも私の中では、そうなっている。
だから、どうしたって、咄嗟にこんなことを考えてしまう。
もしも折原さんが、死んでしまったら――。
「先に言っておくけどな、あんたがそうしてるのは情報屋の所為だぜ」
掴みかかった事には何の反応もくれず、捺樹君はそう言った。
「本人から聞いたんだ、あんたを殴って突き飛ばした張本人に。情報屋への報復と脅しだって言ってたな」
「…………」
「ちなみに犯人は篠宮だ。あの店の店主だよ。もっとも、今は俺名義になってるから、元店主だけどさ」
「……折原さんも、あの人が、」
「あれは篠宮の仕業じゃねーよ。あんたもあの男も、ほぼ同時刻に襲われてるんだ。出来るわけないだろ」
そんなの、今初めて知ったけどね。
店主さんがあの黒作業服の男だというのには、素直に驚いているけれど、不思議と憎悪は湧き上がらない。
むしろ、折原さんを刺した犯人ではない事に、安心してしまったぐらいだった。
「まあ、悪いが俺は篠宮の肩を持つぜ。それだけの事を、情報屋はあいつにやってんだよ。自業自得とも言えるな」
「……それでも、あの人が殺されてもいいとは、思わないけどね」
とても正直に言ってしまえば、私がそう考えてしまう人間も一人はいるのだけれど、今はあまり関係のない話だ。
そんな私の途切れ途切れの言葉をどう思ったのか、彼は呆れたように、
「殺されかけたのはあんたの方だろ」
と言った。
「俺もいろいろあって、あいつに頭殴られてこうなってるんだけどさ。俺やあんたを巻き込んだ事自体は、悪いと思ってるらしい。
まあ、俺は別に構わねーよ。その慰謝料って感じで、店丸ごと貰えたわけだからな。この程度の怪我、安いもんだぜ」
「…………で」
「で?」
ようやくいつもの調子でへらへらと笑いはじめた彼に、私は少し顔を上げてその目を見据える。
「捺樹くん、何で、ここにいるの」
見舞いにしたって、医者や看護師よりも先に入ってくるのは無理な話だろう。
おまけにそんな話をするためだけに来たのなら、検診が終わった後でもいいはずじゃないか。
折原さんの事だって、彼がこんな手間をかけてまで伝えにくるとは思えない。
そんな私の思いを正しく汲みとってくれたのか、捺樹くんはやや垂れ気味な目を細めて猫のように笑う。
「口封じのためだな」
軽い口調で語られたそれに一瞬身体が強張った。
が、すぐに「別に何かしようってわけじゃないぜ」と悪戯っ子のような笑みを浮かべたので、すぐにそれも緩まる。
口封じだなんて、物騒な物しか思い浮かばない。
「今回の事は警察沙汰にはしないでくれって、頼みに来たんだよ」
「……どうして」
「あのアパートで殺人未遂が起こったなんて知れたら、警察があそこに乗り込んでくるだろ?そんな事になれば、確実に俺は捕まる」
それなりに、いろいろやってるからな。
と意味深長に付け加えられた言葉には、あまり言及しないでおくことにした。彼はただのバイト仲間(いや、今は捺樹くんが店主さんなんだっけ?)という認識だけで十分だ。
まさかあそこで虐殺やら監禁が行われているわけではない、と信じたいし……。
「まあ、あんたが倒れる前に電話してた狩沢って人の連れで……確か、門田って奴には、血だらけの二階見られちまってるんだけどな。
何とか言い含めて、他言無用にしてもらったよ。あんたが襲われた事を表沙汰にするのは良くないって喋り続けて、やっとだったけどな。
だから、そいつ以外にはあんたの不注意で階段から転げ落ちたって事になってる。そこの所、話合わせてくれよ。頼むから」
拝むように手を合わせてそう言う彼に、私は「いいよ」と頷く。
すると、捺樹くんはやや安心したように息を吐いた。
「ただし」
まだ私の言葉は終わってない。
「一つ、条件」
そう呟いた私に対し、彼は僅かに怪訝そうな顔をした。
まあ、この条件を飲んでくれなくっても、事の真相を誰かに言ったりなんかしないけれど。
それでももし彼の手を借りられるなら、そうすることに越したことはない。さすがにこの身体では、自力で出来る事も限られているのだから。
平然とそんなことを考えている最中も、やはり頭の中で巡り続ける物の所為で、酷く不安だった。
だからこそ、その不安を取り除くための案を口にすると、捺樹くんは呆れたように「正気か?」と言った。もちろん、これ以上なく正気だ。
全身を打つような鈍い痛みに加えて、横腹や腕もじりじりと痛くなってきたから、目だって十分に冴えている。
「どうなっても、俺は責任持たないからな」
「うん」
「……あんた、本当にわけ分かんねーよ」
分かってもらえなくて構わないよ。
そう心の底で思いながら、私は首を捻って病室を出て行った彼の背を見送り、ひとつ呟く。
「また、夜にね」
(心配の域はすでに超えました)
やることなんて、決まってる。
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