彼は未だ頷かない
5月5日 昼 東北地方 某病院
「そんなにセルティとの邪魔をされるのが嫌なのかねぇ」
土器で胸をかち割って死ねばいいとまで言い切った友人に対し、臨也は苦笑しながら受話器を置いた。
――胸をかち割る前に、腹は抉られてるけどね。
冗談にもならないことを思い、さて次はどうしようかと目を細める。
この様子を見て、折原臨也が昨日通り魔に遭ったばかりの男だと分かる人間が、果たしてどれほどいるだろうか。
もっとも、通り魔というには正体がはっきりしすぎている。故に、その呼称が正確とは言えない。
ただその事実を知っている人間が臨也と当の本人――澱切陣内のみであるため、ニュースなどには通り魔に刺されたとだけ報道されているのだ。
――関東にも放送されたかもしれないな。
今朝見たニュースを思い出しつつそう考えるが、例え知り合いの多い関東でそのニュースが放送されたとしても、心配してくれる人間がいるだろうか――。
そう、大した期待も込めず思案してみる。
両親は海外にいるのだから当然このことを知らないだろう。九瑠璃や舞流にしたって、素直に心配してくれるとは思えない。
波江は無関心だろうし、新羅はすでに一度「ああそう。じゃあね」とだけ言って通話を切った。静雄に至っては言うまでもない。
――ユウキはどうしてるだろう。
唯一と言っても過言ではない、心配していそうな相手の顔を思い浮かべた。そして、昨日の文瀬雪子の言葉を思い出し、僅かに眉を潜める。
『貴方は野崎さんを不幸にする』
まるで呪われたアイテムのような言い草だが、事実には違いない。
正にあの電話を受けたその日のうちに、ユウキは文瀬の言う通り酷い目に遭っていたかもしれないのだ。
というのも、昨日澱切陣内という男から電話を受けた際、刺される直前と言っても良いタイミングで奴がこう言った。
『今回は諸般の事情で実行できませんでしたが、あなたがこれ以上邪魔をなさるようなら彼女を殺しますよ』
そう、何の躊躇もなく、軽い小話でもするように言ってのけた。
この場合の彼女がユウキだということぐらい臨也はすぐに理解したが、その詳細を聞く前に脇腹を刺され、意識を失ってしまった。
――実行できなかったなら、今は無事でいるんだろう。
――……念のため、波江か捺樹辺りに様子を聞くか。
彼女に直接電話をかけるのは気が乗らない。
昨日文瀬から送られてきた写メを思い出し、不愉快を感じている自分に対して臨也は自嘲気味に笑った。
――君からその場所を取り上げたのは、俺なのにね。
「あ、折原さん!」
丁度思い浮かべていた相手と同じ呼び方をされたせいか、臨也は一瞬緊張するように身体を強張らせた。
しかし、彼女がここにいるわけもなければ、声質やその抑揚も全く違うことに気づき、貼り付けたような笑みを浮かべて振り返る。
「どうかしたんですか?」
駆けるようにやって来た看護婦にそう聞くと、彼女は少し息を切らせて、
「遠野さんという方から、お電話ですよ」
――遠野、捺樹君か。
やっとという調子で言い終えられたその名前に、怪訝なものを感じた。
しかし、表面上には少しも表わさず、
「分かりました。わざわざすみません」
臨也は恭しく礼を述べた。
♀♂
『野崎が頭殴られて階段から突き飛ばされた』
「…………は?」
『凶器は俺の家の花瓶。やっすい奴だから、殴られても死ぬようなもんじゃない。階段から突き飛ばされたのも、全身軽い打撲程度で済んでるよ』
「……いや、捺樹君」
『ああ、軽いつっても、痛々しいことに変わりはねーよ。あくまで階段から突き落とされた割には、って話だ。まあ、首やら背中やらをやっちまわなかったのが、』
「いい加減にしてくれ」
いつになく淡々と話し続ける捺樹の言葉を、臨也は苛立たしげに遮った。
通話を始めて第一声が『野崎が頭殴られて階段から突き飛ばされた』だ。状況説明も何もあったものじゃない。
第一、澱切陣内はユウキに何もできなかったはずだ。臨也を脅すために言った言葉なら、あそこで嘘を吐く必要はないだろう。
かと言って、捺樹がここまで質の悪い冗談を言うとも思えない。そうなれば、残る答えは――。
『君の情報を欲しがってる奴は五万といるが、最近彼女の情報も需要が増えてきている』
四月に九十九屋から受けた忠告を思いだし、臨也は持っている受話器を強く握りしめる。
――つまり、澱切と同時期にユウキを狙っている奴がいたのか……。
『……で、俺はあんたに何を伝えれば良い?』
受話器の向こうから聞こえる声に、臨也は平静を装って口を開く。
「一応そういう事がないように、君へ彼女を任せたはずなんだけどね。君は何をしていたんだい?」
『ミキサーで殴られて気絶してたさ。で、気付いたときには夜だった。だから慌てて喧嘩人形にアパートへ行くよう電話して、俺もそこに向かった』
「そこでシズちゃんを選んだ理由は?」
『あいつなら何相手でも平気だからだよ』
「警察には?」
『届けるわけねーだろ。あそこは俺のアパートなんだ、そんな肝試ししたくねぇ。つーか……』
『あんた、全然あいつのこと聞かないんだな』
呆れというより、侮蔑染みた声音で捺樹はそう言った。
臨也は僅かに目を細めただけで、何も言い返さない。
『今回の事はもちろん俺に責任がある。あいつが言うなら土下座だってしてやるさ。でも、元はあんたの播いた種だろ?』
「だったら何だい?その種から芽生えた一つが、勝手に俺じゃなく彼女へ伸びたってだけの話じゃないか。それとも、俺にそれを予測しておけとでも言いたいのかい?」
『いいや、あんたが播いた種のせいで野崎が殺されかけたことに、罪悪感はないのかって話だ』
「罪悪感ねぇ……。俺がいちいちそんなものを感じていたら、きっと君に会う事もなかったと思うよ」
『……、野崎相手にも感じないわけか』
――――――。
捺樹の言葉に、臨也は数日前考え続けていたことを思い出してしまった。
――この世界中に何十億といる人類の一人として存在する彼女と野崎ユウキという名を持つ一個人としての彼女。
――自分はどちらの彼女を愛しているのだろうか。
――前者ならば今までと何も変わらず人間を愛していけるが、後者ならば今まで自分の大切にしていた物は全て否定される。
結論はまだ出ていない。
他の人間と同じように罪悪感を感じないなら、ユウキも『他の人間』と同じ存在でしかない。
じゃあ、もし、そうでないなら?
「……あのさ、捺樹君」
『……何スか』
片手で頭を抱えるように俯いた臨也は、
「君は俺が、それを否定すると思うかい?」
そう言って口元を歪ませ、笑った。
『……あんたの本音はよく分かった』
野崎にも伝えておいてやるよ。最後に捺樹はそう付け加え、通話を切る。
対する臨也はしばらく耳障りな電子音を聞いた後、やや乱暴に受話器を置いた。
――俺には少しも、分からない。
(彼は未だ頷かない)
結論が出るのは、
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