大好きなあなたへ
文瀬との不毛な再会を遂げたその翌日。
私は折原さんに言われたとおり、高校時代を過ごした町へとやって来ていた。
思い入れがある、という言葉だけではとても足りない、あらゆる意味で特別な町。私がこれからどんな人生を歩もうとも、一生付き合っていくことになるだろうあの町。
病院の屋上から見下ろした景色は、今でも記憶の隅に居座っている。忘れるなとでも言いたげに、フルカラーで思い出せる。
私はあの場所で、一体なにをしていたのだろう。どこまでは良くて、どこからがいけなかったのだろう。
なんて、そんな自問自答はもうしない。その全てを含めた結論が、今の私なのだから。
どの出来事を否定しても今の私にはならない。それなら全部受け止めるしかない。肯定も否定もせず、ただ受け止めることだけが、今の私に出来ることだ。
比較的乗り降りの少ない扉から電車を降りると、夏を迎えようとしている太陽が身体を照した。
松葉杖を持っていない左手でひさしを作り、おおよそ1年ぶりとなる構内の風景を眺めるも、大した変化はないように思われた。
まだ1年。もう1年。
「じゃあ、俺はここで待ってるから」
電車内で終始無言だった折原さんは、唐突にそんなことを言って、改札手前にあるベンチへと座った。
今日の目的を具体的には聞かされていないのに、ここで別れようだなんて一体どういうことだろう。
昨日聞いた『君に必要だったもの』という言葉を思い出しながら、「本当に、今日は何をしに来たんですか」と首を捻る。
君に必要『だった』というぐらいなのだから、何か過去に関する物なのだとは予想できるが……。
しかし、折原さん自身からは『返して』くれないようだし、それなら誰が何を返してくれるのだろうか。
電車に乗った辺りから様子のおかしい折原さんを見ていると、どうしたって不安になってしまう。
「改札を出て、真っ直ぐ進んだ突き当たり」
「……え」
「そこで、返してあげる」
それはあくまでも自分から返すのだと、強調しているように聞こえた。
依然として、折原さんは視線をこちらへ向けてくれない。無表情で淡々と、必要事項を話してくれるだけだ。
……とりあえず、言われたとおりにしてみよう。
まったく話してくれそうにないその人の言葉は待つのを諦め、改札の方へと身体を向ける。
そうして一歩踏み出そうとしたとき、折原さんは呟くようにして、
「時間は気にしなくて良いから」
そう言ったきり、何を言っても答えてくれなくなった。
♀♂
改札を出て、真っ直ぐ進んだ突き当たり。
そこはよく駅前の待ち合わせ場所として利用される、時計台の前だった。
現在時刻は午後3時半。私がよく待ち合わせをしたのは夕方頃だったなと、薄ら寂しいものを覚えながら周囲を見渡す。
平日の昼間だと言うことで、人通りは多くもなければ少なくもない。時計台の前で電話をしている人もいれば、忙しくなく目の前を通り過ぎていく人もいる。
自分が何を、もしくは誰を捜しているのかも分からないまま、しばらく辺りを見回していると、不意に見覚えのある顔が視界に入った。
「な……」
思わずその方向を見つめたまま一歩退くと、向こうもこちらに気付いたらしい。駆け足でこちらに来たかと思えば、あっという間に私の目の前へ辿り着いた。
そのときの表情があまりにも真剣だったため、何を言われるのだろうと息を飲むと、
「お前、その怪我どうした!?」
周囲の人たちがこちらに振り返るほどの声量で、六条千景はそう言った。
「言ってくれたらこっちから会いに行ったのに、何でお前はそう――じゃねぇ!元から俺が迎えに行けば良かったんだよな……ごめん、気ィまわんなくて」
「い、いや、大丈夫だから。ちょっと階段、踏み外しただけだし……」
さすがに突き飛ばされた(放り投げられた、の方が正しいか)とは言えないので、曖昧に言葉を濁す。
本気でへこんでいる千景を宥めながら、彼が来たのは偶然なのか、それとも私が待っていたのは千景だったのかと考えた。
折原さんが千景と接触するとはあまり思えない。というより、折原さんは千景が毛嫌いしそうなタイプだから、直接コンタクトをとることはしないだろう。
だからといって、偶然にしてはあまりに出来すぎていると思うのだ。今日この日に限って、偶々出会えるだなんて可能性が、一体どれほどあるだろう。
「千景、どうしてここにいるの」
心の中で悩んでいたって仕方がない。単刀直入にそう聞くと、彼は驚いたように「え?」と声を上げた。
「そりゃ、ユウキに会いに来たんだよ。渡すものが……つーか、預かってるものがあるから」
知ってるはずだよな?とでも言いたげな顔に、私は内心焦りながら「さっきの冗談だから」と苦しい言い訳をした。
「……なんか隠してねぇか?」
訝しむと言うより、心配そうな表情でそう言われてしまったため、ああ……嘘は吐かないと決めたんだと反省。再び口を開く。
「……ごめん、隠してる」
「そっか……」
少し落ち込んだように息を吐いた千景に慌てて謝罪を口にすると、彼は「何で謝るんだよ」と小さく笑った。
「さすがに、何から何まで話してくれとは言わねーよ。迷惑かけるからとか、そんな理由じゃねぇんなら、ユウキの言いたいときに言ってくれればいい」
な?
そう言って笑いかけてくれる千景の言葉は、素直に嬉しかった。
「ありがとう」
♀♂
さすがに立ち話も何だということで、私たちは腰を落ち着けられる場所へと移動した。
駅に残っている折原さんが気になったけれど、時間は気にしなくてもいいという言葉に甘えて、おとなしく千景のあとをついていく。
そうして到着した場所は、何度か足を踏み入れたことがある公園だった。小学生ほどの子ども達が数人遊んでいるだけで、人はあまりいない。
連れられるまま木陰にあるベンチに腰掛け、私はふと不思議に思った。
何故、喫茶店などの屋内ではなく、外なのだろう。
「あんまり、人に聞かれて良いもんじゃなさそうなんだ」
私の疑問へ答えるようにそう言った千景は、隣に腰掛けている私をじっと見つめた後、ズボンのポケットから白い何かを取り出した。
どうやら携帯電話のようだが、彼本人のものではなさそうだ。以前見たものとは色が違うし、機種変更をしたにしては、少し古そうな携帯電話だった。
差し出されたそれを受け取って、間近で眺めてみる。ところどころ傷が付いており、塗装も剥げていた。
――思い当たる節が、ないわけではない。
しかし、ここでどうしてその名前が出てくるのだろうと思えば、それは千景に聞き返すしかなかった。
「これ、どうしたの」
「俺の家に送られてきたんだ。それを入れた封筒と、お前にこれを渡せって手紙が」
昨日な。
そこまで言うと、千景は少し迷うような素振りを見せた後、
「それ、臼谷桃里って子のらしいんだ」
しっかりとした口調で、こちらの目を見つめながら言った。
対する私は、携帯電話を握っていた左手が、震え出すのを感じる。
まさかとは思っていたけれど、本当、に――
「差出人は書いてなかったんだけど……その、亡くなった子と同じ名前が書いてあったから、さ。渡さねぇとと、思って」
「…………」
……きっとしなくとも、その差出人は折原さんだ。
どうしてあの人が、桃里の携帯電話を持っていたのだろう。そう考えてすぐさま、いやこれは今まで文瀬が持っていたはずだと思い直した。
ゴールデンウィークにかかってきた番号は、確かに桃里のものだった。それなら、あの人がこれを文瀬の手から奪ってくれたのだろうか。
本当のことは何も分からない。想像することしかできない。
じっと、所有者のいなくなった携帯電話を見つめる。
最後に私へ連絡をくれたのは、ビルに来て欲しいと言った、あのメールだ。
あれを打っていたときには未だ、桃里は生きていたのに、どうして私は何も出来なかったのだろう。
奥歯を噛みしめてあふれ出そうとする何かを押し止めていると、千景が言った。
「未送信のメールボックス、見てみろって書いてあった」
さすがに少し躊躇ってしまったが、そこに何か、あの子に近付ける物があるならばと、携帯電話を開いてメールボックスを探し出す。
未送信ボックスの中で一番上にあるもの、一番最後……彼女が亡くなった前日に打たれたメールの送信先は、私だった。
自分の名前を確認した瞬間。
息が詰まるほどの動悸に襲われ、危うく携帯電話を取り落としかける。
けれど、今は動揺している場合ではない。
隣に千景がいることを確認して、深呼吸を何度も繰り返し、私はやっと――そのメールを開いた。
♀♂
『ユウキちゃん、私はユウキちゃんが大好きです。
いきなりなんだって、思われるかも知れないけど。
本当に私は、ユウキちゃんが大好き。
誰も私を助けてくれなかったのに、ユウキちゃんだけは庇ってくれた。
たくさん話しかけてくれて、一緒にいてくれて。
私はそれが、凄く嬉しかった。毎日とっても、楽しかったよ。
他の子達と話せるようになったのも、ユウキちゃんのお陰だと思う。
私ね、あのとき、誰も信じてなかったんだ。
周りにいる人たちがみんな、怖くて仕方なかった。毎日少しも、楽しくなかった。
でも、ユウキちゃんが助けてくれたから、また信じても良いって思えた。
毎日が楽しくて、生きていたいって思えたよ。
ユウキちゃんがいなかったら、私はもうここにいないから。
だから、私を生かしてくれて、ありがとう。
助けてくれて、ありがとう。
一緒にいてくれて、ありがとう。
話しかけてくれて、ありがとう。
遊びに連れて行ってくれて、ありがとう。
誰かを大好きって言える私にしてくれて、ありがとう。
この先なにが起こっても、この気持ちだけは絶対に変わらないからね。
本当に、これだけは、絶対。
変わらないから。
私はユウキちゃんに、何かあげられたのかな。
私ばっかり、もらってた気がするんだ。
ずっと守ってもらってたから。
受験で少し、離れちゃったこともあったけど。
恋人ができたって聞いて、ちょっと寂しかったけど。
今思えば、それは私の我が侭だよね。
私は自分で幸せにならなきゃいけないのに。
それもユウキちゃんに求めてばかりじゃ、いけないって。
ようやく気付きました。
だから、ユウキちゃん。
これまで私を幸せにしてくれた分だけ、ユウキちゃんも幸せになってください。
ユウキちゃんを幸せにしてくれる人と、ずっと笑っていてください。
何があっても、この願いだけは変わりません。
大好きなユウキちゃんに、幸せになってもらいたい。
本当は何回言っても足りないけど。
ありがとう、ユウキちゃん。
あなたと出会えて、私は幸せです。』
(大好きなあなたへ)
私も君も、同じだった。
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