たったひとつの、恋の終わり
名前を呼ばれて振り返れば、千景がこちらへ駆けてくるのが見えた。
まさか背後から登場されるとは思っていなかったので、私は驚きのあまり声も出せず、ただ目を見開いた。
向かってくる彼は、見たこともない切羽詰まった表情をしていた。
途中で風に煽られ、飛んで行ってしまった帽子に目もくれず、数十メートルの距離をあっという間に縮めていく。
千景に呼ばれてから、彼がこちらへ近づくまで。
実際の時間はとても短かかったはずだ。ほんの、十秒程度のものだったに違いない。
しかし、私にはその時間がとても長く、彼に会わなかったこの一年が全て凝縮したような――とても重いものに感じられた。
その重みの中にどんな思いがあるのか。
自分でもまだいろいろと複雑で、全てのことに折り合いが付けられたとは言えないけれど、今思うことは一つ。
会えて嬉しい。
たった、それだけだ。
「やっと、顔見れた」
そう言う千景は珍しく、肩で息をしていた。
毎日のように顔を会わせていた頃は、あまり帽子を被っている姿も見たことはなかったから、ストローハットを被っていない彼は私の見慣れていた千景だった。
包帯の存在がイレギュラーではあるけれど、それへ近づいたことに変わりはない。
そう考えれば考えるほど、嬉しい気持ちが他の物へと変わってしまうことに嫌でも気がついた。
「久しぶり」
思わず出かけた言葉を抑えて、私は無難な挨拶を選んだ。
多分、いつもと変わらない表情で、いつもの私がそう言った。
すると、千景は何も言わずにじっと私を見つめた後、
「久しぶり」
そう言って、静かに笑みを浮かべた。
けれど、その笑顔には、どうしようもないくらいの距離があった。何だかとても遠かった。
私の吐いてきた、嘘のせいだ。
「千景」
だから、私はその嘘を取り除かなくてはいけない。
全て正直に、言わなくてはいけない。
こんな曖昧な関係は、どちらにとっても良くないことだから。
「時間、いいかな」
始めるために終わらせよう。
♀♂
久しぶり。
そう言ったユウキは、千景のよく見ていた分かりづらい笑みを浮かべていた。
その様子を見て、彼女へ駆けよった時、衝動的に伸ばしかけた右手を強く握りしめる。
抱きしめることも、手を握ることも、しようと思えばできたはずだが、今そうするのは間違っている。
ユウキの顔を見つめながらそう考え、千景は彼女へ習うように「久しぶり」と返事をした。
彼女はそれでも笑みを浮かべたまま、一定調子な言葉を口にする。
直に名前を呼ばれるのはいつ以来だろう。嬉しさとは違う別のものを感じ、千景はユウキの問いにただ頷いた。
そうしている間に、ふとそばにいたノンと目が合う。
すると、彼女は仕方がないとでも言いたげな顔をして、状況が全く呑みこめていないだろう門田達の元へと向かって行った。
そして何事か彼らに耳打ちした後、
「一緒に帰れそうだったら、6時までにメールして」
そう言いながら、早く行ってと言うように両手を押し出すような動作をした。
「それまでには、終えるから」
ノンの言葉にそう呟き、ユウキは再び千景に背を向けて歩きだす。
ここまで来て、待ったと言うことはできない。ユウキがやっと、自分から行動を移したのだから、その邪魔をするわけにはいかない。
それに、彼女が話そうとすることは、きっと自分がユウキの口から聞きたかったものだから。
そう考えたことに、根拠と言う根拠はない。
しかし、千景はそう信じていた。
分かったのではなく、信じていた。
彼女はこう言ったから、次はこうするだろうとか。
彼女がこんな表情を浮かべたから、こう思っているだろうとか。
そう推測して理解することは、そうそう難しいことでもない。
推し量る根拠のないものを信じる方が、よっぽど難しい。
けれど千景は疑う余地もなくユウキの言葉に頷いて、ノンに「分かった」と返事をした。
♀♂
「ごめんなさい」
人気のない校舎裏の隅で、私はまずそう言った。
昨日千景に会うことを決めた時から、話を切りだす第一声はこれにしようと決めていたのだ。
ごめんなさい。
ごめん、でも、ごめんね、でもなく、ごめんなさいでなくてはいけなかった。
言葉の最後まで、謝りたかった。
何を謝っているのかは、これから話そうと思っている。けれど、最初にそう言っておきたかった。
目の前で私の言葉を待つように黙っていた千景は、小さく顔を俯かせたまま、結局何も言うことはなかった。
だから、まずは全部話してしまうことにした。嘘だったものを、嘘だと言って、本当のことを話さなくてはいけない。
「嘘ばかり吐いて、ごめんなさい」
まるで子供のような謝罪だと、自分でもよく分かっていた。
しかし、こう言うのことが一番正確なことなのだ。
そう考えながら静かに息を吸い込んで、私は再度口を開く。
高校生だった時に親友だと話していた子は、もうすでに亡くなっている。
それは千景が遠征に行っていた時で、私は彼女の死がショックで堪らなかった。
守り切れなかったんだという事実を突き付けられたから。私が彼女を死に追いやったのかもしれないと思ったから。
私はその罪悪感に耐えきれなくて、過去から逃げることを選んだ。だから、何もかもなかったことにしようとした。
そして、千景と一緒にいられなくなった。一緒にいればどうしたって、あの子のことを思い出すから。
それに、
「私、千景と出会ったことが間違いだったんだって、思ったことがあるんだ」
それはまだ、折原さんを探していた時の話。
「千景と出会って、あの子と話すことが減って、出かけることが減って、誰かを信じてもいいと思ったから、思ってしまったから、あの子は死んだんじゃないかって」
そう思ったことが、確かにあった。
「でも、私は千景と一緒にいられて楽しかった。話をして、どこかに出かけることが、凄く嬉しかった」
だから、間違いだったと思いたくはなかった。
「凄く幸せだった。誰かと気兼ねなく話せることが、誰かと親しくなっていくのが、嬉しくて堪らなかった。そのきっかけをくれた千景のことが大好きだって、そう思えることが幸せだった」
楽しかった。嬉しかった。幸せだった。大好きだった。
どこにも嘘なんて誇張なんてありはしない。全部私の本音だ。その時に思ったことの全てだ。
だからこそ、私は千景とは一緒にいられないと思った。
桃里が苦しんでいる中でそう思っていたことが、重くて仕方がなかった。罪悪感にしかならなかった。
「私は自分勝手だから、今までずっと千景のことを振りまわしてきたと思う。
欲しい言葉を言ってくれる千景に甘えるだけで、別れようって言ったのは私なのに、そんなところばかり抜け出せない――全部、私の我儘」
我儘だから、そんなのはもう、やめてしまわないといけない。
「このことを謝ったら、今度こそちゃんとお別れしようと思ったんだ。だから、」
「我儘だから、それが何だよ」
ずっと黙って話を聞いていた千景が、急に私の話を遮った。
何か言われるかもしれない――それぐらいのことは、私も考えていた。けれど、それは今まで聞いてきた彼の声の中で、一番小さなものだった。
「俺はお前の我儘が嫌だなんて、一度も言ったことねぇだろうが」
喉の奥から絞り出すようなそれに、私は何も言えなくなってしまう。
それは、そうだ。
千景は優しくて、いつも私の話を聞いてくれて、何かを拒否されたことなんかない。
「でも、私は拒絶してばかりだよ。嫌だって、言ってばかりで……千景のことなんか、少しも、」
「考えてないのに、俺がもっと傷つくようなことは言わないんだな」
手にしていた帽子を被り直し、千景はそう言って真っすぐこちらを見つめた。
何か、知っているような口ぶりだった。いや、何かではなくて、全部知っているような――。
そう考えかけたところで、私はハッとした。そして、ずっと維持していた調子が崩れるような、そんな感覚に目の前がぐらつく。
「その子、自殺したんじゃないのか。お前が、自殺の原因だって、遺書に残して」
「……何で」
「お前の同級生だった人に聞いた」
そう言うと、千景は何かを耐えるように眉を潜めた。
あの同級生たちが言うことで、私を良いように聞こえる内容なんてありえない。私が桃里を殺したと、平気で言える人達なのだから。
そんなものを聞かれたくはなかった。私の手が震えだすと同時に、千景が口を開いて、
「お前が原因だなんて、んなわけあるかよ……っ」
さっきまでの声が嘘のように、憤っているような声が聞こえてきた。
千景にそんな声で何かを言われたことは、今までなかった。手の震えもすぐに治まってしまうような出来事に、私は何度も瞬きを繰り返す。
「俺はお前がその子のためにやってきたことをずっと見てきた、感謝されることはあっても恨まれる覚えなんて一つもねぇ。絶対にだ。
お前だって分かってたはずだろ、そんな覚えがないってことぐらい。それなのに周りの奴らからはそう思われて、挙句その子の遺書にも書いてあったんだ。
お前がショックだったのは、そっちじゃねえのか。
そりゃ守れなかったこともショックだっただろうけどよ。親友だった奴にそんな誤解されて、その誤解も解けずに死なれたら、誰だってショックに決まってんじゃねぇか。
そういう時は誰かに違うんだって言うもんなのに、何でそうしないんだよ。俺が帰って来てからでも言えば良かったのに、何で何も言ってくれなかったんだよ……っ」
何かを押し殺すような言葉に、私は酷く戸惑った。
私が違うんだと訴えた相手は、折原さんだった。
千景ではなく、赤の他人だったはずのあの人だ。
どうして千景じゃなかったかなんて、そんなの、そんなのは、
「そんなのは……」
死にたいぐらい、自分が嫌になってしまったから。
私がその結論に辿りついてしまうまでに、何も言ってくれなかったから。
誰もいなかったときに、傍にいてくれなかったから。
一番いてほしかったのに、いなかったから。
そうやって千景を、一瞬でも憎んでしまったから。
――そんな私が、彼に何を言えるんだ。
「ユウキ」
しばらくの沈黙を挟んだ後、千景は幾分落ち着いた声色でそう言った。
いつの間にか俯いていた顔を上げて様子を見れば、彼は少し目を伏せるようにして、
「俺はお前が傷つくのが、一番嫌だ」
そう、確かな声で言った。
「お前がどうしようもなかった時に、俺は何もできなかった。傍にもいてやれなかった。今さら謝ったところで、もう遅いかもしれない。だから、ユウキ」
再び私の目を見据えた千景は、ずっと降ろしていた左手を伸ばして、私の手を握る。
覚えのある感触に、何かを強く握り締められた。ほんの一年ほど前までは当たり前の事だったのに、今はこんなにも意味が違う。
どうして。
どうして。
当たり前のままで、いられなかったんだろう。
違ってしまったんだろう。変わってしまったんだろう。
楽しくて、嬉しくて、幸せで、大好きのままで、いられなかったんだろう。
終わりたくないのに。
納得なんか、したくないのに。
理解した振りをするのは、どうしてこんなにも辛いのだろう。
そう思いながら、泣きだしたくなる衝動を堪えて、私は千景の言葉を待った。
彼もそれを待っていたように、口を開いて――。
「これからのお前を、守らせて欲しい」
傍にいて欲しいんだ。
そんな彼の言葉に、私はずっと決めていた言葉を口にする。
「ありがとう」
そう何とか笑みを浮かべた後、
「ごめんなさい」
静かに、そう答えた。
千景のことは、もちろん好きで、好きで、大好きで。
私にそう言ってくれることが、嬉しくて仕方がないぐらいで。
彼の傷ついた顔も、見たくはないのに。
それでも、ごめんなさい。
応えられなくて、ごめんなさい。
私にはもう、恋人として彼を見ることはできないから。
ずっと彼の傍にいることは、できないから。
「ごめんなさい」
震えそうになる声を抑えつけて、私は同じ言葉を繰り返した。
「……わかった」
そう悲しそうに言った千景は、ゆっくりと私の手を離す。
私がそれを拒んだのに、離れてしまうのが嫌だと思うのは、やっぱり、私の我儘だ。
「そう言われると、思ってたんだ」
僅かに明るさを含んだ声で、千景は仕方がないと言うような笑みを浮かべる。
「でも、何かあったら、絶対に言ってくれよ。何があっても、助けに行くから」
「うん」
うん。千景は絶対に、来てくれる。
本当に、何があっても、助けに来てくれる。
彼は、そういう人だから。
「そのときは、お願いするね」
「おう。もちろん何もなくても、24時間電話待ってるから。あとまたノン達とも、どっか行こうな。あいつらも会いたがってるから」
「うん。また、連絡する」
そう言って、私はやっと、自然に笑みを浮かべることができた。
千景もいつものような笑みを見せてくれたので、これで……もう、本当に終わり。
「じゃあ、私、そろそろ帰るね」
そう言って、手を振りながら、私は千景に背を向けた。
それから、顔だけを振り向かせ、
「またね」
次に繋がる言葉を口にし、彼も
「またな」
と微笑んでくれたのを見届けて――
私は、千景と別れた。
(幸せな、恋の終わり)
会えてよかった
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