怖いよ、じゃあ逃げよう
「……それで、いつも通りオネンネってわけか」


 昨晩の出来事を静雄が話し終えると、トムはそう呟いてコーヒーを啜った。
 とは言えユウキ絡みの会話はすっ飛ばし、青年の顔面に裸拳をいれたところまでのことしか話していない。
 当の彼女は片手で持っていたチラシを両手で持ち、未だ無言でそれを眺めていた。
 静雄には微かに手が震えているように見えたのだが、すぐに自分の上司へと目を向けたため、実際どうだったのかは分からない。
 

「ええ。まあ、知り合いの医者んとこに運びましたけど」
「珍しいな、静雄が医者に運んでやるなんて」
「死なれても困りますし。あと、ああいう奴は……まあ、嫌いでもないんで。ノミ蟲だったらそのままトドメ刺しますけど」
「まあ、お前に一発ぶん殴られりゃ、それってトドメみてえなもんだしな……」


 トムが苦笑してそう呟くと、


「四発っす」
「は?」
「俺のパンチ、四発目までは起き上がってきましたよ、あいつ」
「……マジで?」
「ええ、五発目入れる直前に、あいつ『ちなみに、俺には看病してくれる女の子がいるんだぜ、うらやましいだろ』……だったかな。歯が折れてたみたいだから聞き取りづらかったですけど、そんな事言ってバッタリ倒れちゃいましてね」「だから……」「?」


 隣から聞こえた小さな声に静雄が振り向く。
 すると、チラシが床に落ちていることに気付いていないのか、不自然な位置で両手を握りしめているユウキは俯いて、


「だから言ったのに……」


 押し殺すような声でそう言った。


「……お前、さっきから何やってんだ?」


 思わず静雄がそう尋ねると、ユウキはハッとしたように顔を上げて「え」と正面を向き、瞬きを繰り返した。
 やはりチラシを落としたことに気付いていなかったらしい。
 「何って、ええと……」目を泳がせながら躊躇いがちに呟くユウキに、静雄は小さく眉をひそめ、トムは首を捻った。
 のだが、その数秒後。


「実は私、その六条千景と知り合いなんです」


 先程までの動揺はどこへいったのか、平然とした面持ちでそう言った。


「ああ、そういやお前さんも埼玉から来たんだっけか」
「はい。まだ学生の時に声をかけられて、知り合いました」
「あいつらしい知り合い方だな……」


 納得したように頷くトムに対し、静雄は未だ苦い表情をしていた。
 昨日の青年の言葉を信じるならばここは納得するところのはずだが、そうそう素直な反応などできない。
 ――何でただの知り合いが話に出てきただけで、あんなに動揺するんだ?

 さすがに聞いてみようかと、静雄が口を開いたときだった。


「すみません、ちょっと席外します」


 そう言って素早く席を立ったユウキは、手洗いの方へと駆けていってしまった。




 ♀♂




 駆け足でトイレに向かい、全てが開かれている個室扉の中からひとつを選んで中に入った。
 それからスライド式のロックをかけ、一息吐く暇もなく鞄から携帯電話を取り出し、電話帳のら行から六の文字を詮索する――必要はない。
 電話番号を登録しているら行の名字を持つ知り合いなんて、私には彼しかいないのだから。
 そうして無言のまま相手が出るのを待ち、6コールほど経った頃だろうか。


『どうかした!?』


 と、なぜか切羽詰まった様子の声が聞こえた。


「もしかして、今急いでるの」
『急いでない、むしろ時間に余裕ありすぎて困ってる』
「ような人の声じゃなかったよ、さっきの」
『ユウキの名前見てテンション上がっただけだって!それで、どうした?』
「怪我」
『……怪我?』
「平和島さんに喧嘩売らないでって、言ったのに。私、千景が怪我したところなんて見たことないんだから、一瞬何があったのかと……」
『…………ユウキ、それ見たのっていつ?』
「いつって、さっき千景が……あ」


 あ。と、そう言った瞬間に、私は初めて自分が何をしているのかということに気が付いた。
 六条千景に電話をしている。池袋で。今千景がいるこの池袋で。彼をついさっき見かけたという証拠まで白状してしまって。

 電話をかけてしまった。


『さっきってことは、』「今から電車乗るからもう切るねまたかけ直すから」


 そうして携帯電話のどこかを押し、通話を強制終了させてからしばらくの間呆然としてする。
 何も考えずただ携帯電話を見下ろして、自分の押したボタンが電源を切るものだったということに気付き、頭を抱えた。
 

「……何やってんの」


 自分のとった行動が理解できない。というか、呆れていた。
 私は本当に千景へ嘘を吐きすぎている。振り回しすぎているし、好き勝手にやりすぎている。
 昨日の朝、そのことで自己嫌悪に陥りかけたばかりだというのに……まるで学習力がない。

 とっさの小嘘が板についてしまっているというのもあるのだろうけど、それにしたってあんまりだ。 
 

「あとで、謝ろう」


 あとで。

 そう誰かへ言い訳をするように独り言を呟き、私は電源の切れた携帯電話を鞄へ戻して、逃げるようにその個室を飛び出した。
 


 (怖いよ、じゃあ逃げよう)



 君は何も変わってない。

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あきゅろす。
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