欺き足りない
「いってきます、と」
朝食やその片付けを終えた後、折原さんに気付かれないよう静かに玄関の扉へ手をかけた、つもりだったのだが――――。
「いつもは声かけてくれるのに、今日は黙って出て行くんだ?」
「…………」
振り向けば背後にご本人。心霊現象かと思うぐらいに気配も足音もなかったんだけど……。
相変わらずな読めない表情で見つめられ、居心地が悪くなり視線を泳がせた。まだ今日は始まったばかりなのに、無言回数が多すぎやしないだろうか。
そうして扉を開けることも口を開けることもできないでいると、折原さんが目を細める。
「やっぱり、今日は調子悪そうだね」
「……別に、いつも通りだと」
「いつも通りの君なら、さっきの沈黙の間に出て行ってるよ。最近のユウキは、俺の言うことあんまり聞いてくれないからさ」
最後の言葉は少し皮肉めいていたけれど、わざわざ調子の良し悪しを気にかけて貰っているのは……嬉しい、のかな。
本当に調子が悪いのかと言われれば否定はしない。でも、そんなに気にして貰うほどのものでもない。
だから、その通りの言葉を言い返すと、
「ここで『じゃあ、気にしない』って言えば、それはそれで嫌なんじゃない?」
そう意地悪げに折原さんは言った。
「気にするなって言われて気にならなくなる相手なら、俺は一年も一緒に暮らしたりしないよ」
「……今日は、やけにストレートですね」
「捻くれた言い方の方が良かった?」
「そういうのが捻てるって言うんですよ」
少し口元を綻ばせてそう言うと、その折原さんが――――少し、でも今まで見たことがないような種類の笑みを浮かべた。
「俺は今まで散々君の過去を引き合いに出してきたけどさ、もう俺からは何も言わない。だからユウキも忘れた方が良いよ、それは君だけが苦しまないといけないものじゃないから」
まあ、俺に言う権利はないかもしれないけどね。
そう付け足したその人に、私はしばらくの間呆けてしまった。え、誰この人?
「なに?」
私がずっとそんな表情をしていたからか、折原さんは僅かに訝しむような顔をした。
「今日は雪が降りそうですね」
「もう5月なんだけど」
「折原さんが言いそうにない言葉のトップ10には入ってましたよ、さっきの言葉」
「……君さ、たまにもの凄く失礼なこと言うよね」
そうして苦笑を浮かべている折原さんへ、
「でも、嬉しい言葉に変わりはありません」
素直にそう言ってから、私はマンションを後にした。
♀♂
「嬉しい言葉、ねえ」
完全に閉じきった扉を眺めながら、ユウキの言った言葉を復唱して思わず笑ってしまった。
確かに最近の彼女は俺の指示へあまり耳を貸さない。しかし、それに反比例してこちらの言うことを素直に信じるようにはなったと思う。
こうして彼女が丸くなると、悪いことの起こる前兆のようにも感じるが。
「まあ、本当にそうなんだけどさ」
悪いね。俺は君についさっき、1つ嘘をついた。
忘れた方がいいなんて本心では少しも思っていない。
今日夢を見たように、もっと思い出せばいい。
一ヶ月前からずっとそう考えている。
でもそれは君だけが苦しまないといけないものじゃないから、彼にも同じようなものを背負わせてあげよう。
そうして別々の場所で、二人罪悪感の中を溺れていけばいい。
「君が助けてと言ってくれれば、引き上げてあげるけどね」
(まだ欺き足りない)
嬉しいと言った彼女は笑っていたのに。
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