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 ある日の事だった。あの日は雨が降っていた。兄貴は中学生になり、俺は小学五年生になっていた。
 父さんは休み、兄貴は開校記念日で休みで、俺は通常授業があった日。
 傘を忘れたものだったから、びちょびちょになって帰っていた。その日は寒くて、手に息を吹き掛けながら、人なんてほとんどいない道を走っていた。
 いつも通りの玄関なのだ。だが、怖いほど静かで。
「ただいまあ」
 重たいドアを開け、靴を脱いで入る。リビングへのドアを開ければ。

「逃げろッ! 司!」
「え……?」

 真っ赤だった。
 理由は簡単だ。兄貴が伸ばした手は、俺には届かず、重力に従い、血だまりに堕ちて逝く。目線を前に移せば、あの女がいた。
 相変わらず笑うことを止めない女は、堕ちた兄貴を見つめて笑う。
「ダメよ。こいつは私が殺すんだから」
 くすくすと笑う女。手には血まみれのナイフが握られていた。俺は動けない。ただ、恐ろしさから声も出なかった。
 そんなとき、ふと女は俺を見た。恐怖に悲鳴にならない悲鳴が上がった。
「さあ、お母さんの所へ逝かせてあげる」
 一歩ずつ近づいてくる女に、やはり動くことは出来ない。口をパクパクと死んだ魚のように開閉させ、目はまばたきすることも許されないというように目を見開いていた。
 ナイフを振り上げたその時だった。
「逃げ、ろ! 司ッ!」
 母さんが助けた命を、無駄にするな、生きろ!
 鞭を打たれたように走り、逃げ出す。玄関へ逃げようとしたが、先回りされる。右へ曲がり、父さんの仕事部屋へ逃げ出した。父さんはベッドで寝ていた。ベッドの横にある机に睡眠薬と書かれた箱が置いてあった。だが、女が入って来る前にと、父さんを揺さぶり、起こす。
「父さんッ! 父さんッ!」
 目を開けない父さん。もう一度揺すぶれば、今度は重たい瞼を開けた。
「司……?」
「父さん! あいつが……あいつがッ!」
 その瞬間。父さんは目を見開き、司の腕を掴み、ベッドへと転がした。目線をを父さんへと向ければ、血が飛び散った。叫び声は虚しく、兄貴と同じく、血だまりへ堕ちて逝く。
「あなた……」
「司、逃げ、な、さいッ!」
 また、そんな声に鞭を打たれ、女が呆然としている間に横をすり抜けた。涙が溢れてくる。逃げ惑う司に女は後ろから血を垂らし、追いかけてくる。
 逃がさないよう。細心の注意を払って。

 司は台所へ来ていた。包丁を握り締め、振り返る。女に初めて刃物を向けた。女は恐る訳でもなく。じりじりと近づいてきた。
「あんたの母親はね、私に手も足も出なかったの」
「嘘だッ! 母さんは強い!」
「ええ、強いわ。でも手を出せなかった。何故だか分かる?」
 女は怒りからなのか、能面のような顔で続ける。

「あんたを守るためよ」
「え……?」

 司は目を見開き、構えを軽く崩してしまう。その言葉に動揺していたのだ。
「あの時、まだ息はあった。でもね、あんたを黙らせようと振り上げたナイフはあの女に刺さったの」
「……じゃあ」
「そう、あの女はあんたの変わりに死んだ」
 司は何も言えなかった。これじゃあ、司が、人殺し。
「お兄ちゃんだって、あの人だってあんたが殺したのよ。この」

 ――ヒトゴロシ

 その言葉に俺は何も言えずに固まった。じゃあ、俺が全部やったのか。殺したのか。誰を? 俺の家族、を。
「死ね」
 そんな女の声に俺は身構えた。咄嗟に目線を外し、身体を庇うようにまるめ、包丁を持っていた手を前に差し出していた。
 生暖かい感触が、つく。包丁は女の心臓を貫いていた。ひい、と思わず後ずさるが、女はカウンターへと追い込み、肩を掴み、逃がさないと言うようにもたれてきた。
「全部、あんたが」
 ぶつぶつと、女は続ける。

「呪ってやるわ、一生、ね……」

 女はそれ以上、動くこともしゃべることもなかった。涙が止まらない。だが、拭うこともできない。涙とともに落ちた鮮血は、何も語らない。











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