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病葉の籠



 写真立てに入れた妻の写真にキスをする。
 忘れた事などない。10年経とうが50年経とうが、彼女への愛が薄れる事はなかった。
 変わったのは状況の方だ。
 故郷から逃げ出し耳をそば立て、目立たぬようひっそりと生きてきた。
 一刻も早く世間がヴァンパイアの事を忘れてくれるよう願い続け、その血が流れる息子の成長を見守ってきた。
 しかしフォルツがどんなに願っても人々の口は20度に1度程の割合で彼等の話題を上らせる。それも悪い話題でだ。
 それはフォルツにとって身を斬られるような痛みを伴うことだった。
 フォルツの生国であるホルダウ公国は貴族社会の中でもタカ派の先鋒と言われるグラッジャー侯爵の治める大国である。
 尊王主義を掲げ、皇帝に忠節を誓う侯爵は同時に世界王を唾棄し、自国において貴族と民衆に確固とした身分差を敷いた。
 かといって、民衆が粗略に扱われている訳ではない。寧ろ公正真摯な方で、貴族だとしても専横を許さず、民を庇護し育むことにはとても力を入れていた。ただその民衆の上には越えられない壁として貴族身分が存在しているのだ。
 フォルツはそれまで何一つ疑問に思うこともなくぬくぬくと暮らしていた。
 侯爵の言葉は全て正しい。皇帝は正義、世界王は悪。皇帝は力を奪われた清く儚い蝶、世界王は蝶を食い殺そうと目論む醜い簒奪蛙。
 ヴァンパイア種が弾圧されていることすらまるで無関心だった。
 フォルツの人生を変えたのはやはりロザイアとの出会いだ。
 試す気でいたのだろう。あるときロザイアが自分はヴァンパイアだと告白してきたが、既に彼女を愛してしまったフォルツには何の障害にもならなかった。
 彼女のために生まれ育った国を両親を友人を捨てることに何の躊躇いもなかったのだ。
 けれど、現実はそう生易しいものではなかった。
 公国思想の染み付いてしまったフォルツと公国から迫害を受けてきたロザイアとでは意見が食い違うことが多々あり、口論になるたび何度泣かせたか知れない。それが嫌で公国の行なった非人道的政策の資料を片っ端から読み漁ったことがあったが、痛々しいからとロザイアに止められた。
 その時仕入れた知識とこれまでの習慣が今、フォルツを雁字搦めに縛っている。
 確かにヴァンパイア種による危険も多いが、決して解りあえない訳ではない。1を見て全てを同列にしてしまう公国的考えは乱暴だと思うものの、異論の声を上げたくてもその声が出ない。足が竦んで身体が冷えていくのだ。
 ロザイアを奪われたときですら……
 どんなに悔しく、情けなかったろう。
 あの時身体を動かしていたのは、偏に息子の存在だ。
 妻だったモノを呑み込む焔を見ていた時、脳裏で護らなくてはと声がしたのだ。
 窓枠に体重を預け、眼下を望む。小路を行き交う人の中に息子の姿は見えない。ゴチンと窓ガラスに頭がぶつかった。
 そんな不自然な体勢のまま、視線だけを部屋の奥へと投げる。クローゼットの中には妻の代価が殆んど手付かずのまま眠っていた。
 普通に生活すればフォルツが死ぬ頃までもつ額だ。
 しかし逃亡生活をするには足りない。
 なるべく使うまいとフォルツ自身働きに出たものの、生活するので手一杯では逃亡資金の足しにもならない。
 1ケースを元手に増やそうと思ったこともあるが、ギャンブルに向かないのは自分で分かっていたし、株をやろうにも全く未知の世界で二の足を踏んでいる。国を捨てた身では頼れるものもなく、保全委員会もこのざま。
 行き詰ってしまった……





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あきゅろす。
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