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 長官室から退室し席に戻って仕事の続きをしているとアリシュアの肩を叩く者があった。財務省技官のイリッシュである。
 彼女は「ちょっと待ってて」と言い置くと、腕に抱えた紙面を各担当者に配布し始めた。どうやらそれは財務省から差し戻された予算書のようで、受け取った者たちは総じて肩を落としている。その作業が終わるといよいよイリッシュはアリシュアの腕を掴んだ。
 廊下に連れ出され、何かと思えば昨夜の件だという。
「うちの人に会ったってホント?」
 昨夜歩道橋上でランティスに歌わせていた男だ。一度イリッシュに引き合わされたことがあったが、アリシュアは全く覚えていなかった。「あんた確かイリッシュの友達じゃないか?」と言われてようやく思い当った程だ。
 振り切って逃げてきたが身元ばれている以上何らかの形で接触してくるかもしれないとは思っていた。
 イリッシュの恋人は歌手になるのを夢見ていつまでもフリーターでいるが、仕事は長続きせずコロコロと転職し歌の稼ぎの方も雀の涙。同棲とは名ばかりの半ヒモ状態男だ。
 昨夜聞いたところによると、先に声を掛けたのはランティスの方らしかった。あの界隈にはストリートミュージシャンが多く、冷かしていたのだという。
 目を止めたのは1、2組。他はどれもこれも凡庸だった。その凡庸の中でその男を選んだのは閑古鳥具合が妙に滑稽だったかららしい。
 歌唱力も凡庸、ギターの腕も凡庸、歌詞だけが珍妙。胡乱げなその男から楽譜を奪い取ってアカペラで歌ってやるとショックと感動で慄いた。それを放置しそのまま歌い続けると瞬く間に人が集まり、男も慌ててギターを掻き鳴らす。結局アリシュア達が到着した時には十曲弱歌っていたそうだ。
 昨日の稼ぎは相当なものだったという。驚いたイリッシュが問い詰める前に男は興奮しながら洗いざらい吐露したのだ。
「でね、その人の弟子になりたいってきかないの。知り合いなんでしょ? 紹介してくれないかしら」
 予想していたことながらアリシュアはげんなりした。
「……彼のためを思うなら夢を見たんだと思えと言っときなさい。あれは性別を間違えて生まれてきたクチでね。女ならスポットライトを浴びてたんだろうけど、残念ながら男のあいつの歌はローレライの歌。破滅へまっしぐらよ。ちょっと聴く分には問題ないけど、あれを師匠にするなんて正気の沙汰とは思えないわ」
 イリッシュはきょとんとする。随分酷い言いようだ。どんな人なのかと問うとなんと会ったことがあると言う。
「あ! 食堂で会った人?」
「そう」
「え―――!?」
 歓声が廊下に響き渡る。通行人にちらちらと見られ、慌てて口を押えた。
「あっ、もう一人若い男を連れてたって聞いたわよ」
「あれは甥っこ」
 説明が面倒でランティスが掲げたという設定を仕方なく採用した。身内だとしておけば「若い男の子を囲ってる」という醜聞も立つまい。
「会わせてよ」
「は?」
「会いたい」
 見る間につぶらな瞳が濡れ始める。アリシュアは呆れた。
「……そういうのは女には効果ないと思う」
「そうね」
 瞬きの後には涙の事実など無かったが如きだ。
 こんな彼女だが、「壁」と揶揄される財務省官員だ。渋るアリシュアを陥落させる有効な武器を供えていた。
「アリシュアさ、今、全省庁の財政環境見直し作業してるでしょ」
 対磁力場工事案を進める上での雑務だ。外務庁としてではなく個人で行っているので各省庁からの風当たりはキツイ。イリッシュも先輩財務官が「生意気だ」と言っているのを聞いていた。
「私のできる範囲で便宜を図ることも可能だけど?」
 艶やかな流し目。これに落ちない男はいないだろう。
 アリシュアは小さく笑い引き合わせることを承諾した。友人の「便宜」の前ではランティスの価値など無に等しい。





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