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 自室の革張りの椅子に身を預け、外務庁長ことフェルニオ・コルドはどっと襲い掛かる疲労を感じていた。
 世界王西殿、紅隆。怖ろしい男である。
 対面しただけで銃口を突きつけられ続けているような錯覚がしたものだ。コルドは机の上の写真立てに目をやった。そこには自分の隣に、小さな老人が笑って写っている。先の外務庁長を勤めたクラウス・ハクビーズその人だった。
 目尻に深い皺を作った老人はつい十数年前までこの席に就いて、あの男と対していた。あの悪夢のような日から、唯一世界王と対等以上に口をきいていた傑物だったのだ。紅隆もハクビーズに対してだけは態度が違った。
 あの細く小奇麗な顔に慈愛を浮かべ、彼には──自分達に向ける慇懃無礼とは真逆の──敬語で喋った。コルドはその前に跪いて手の甲に接吻しているのも見たことがあった。
 我らの神を殺した男が、である。
 コルドは吐息と共に苦悩を吐きださんと、何度も深呼吸を繰り返した。
 違う。紅隆ではない。分かっている。
 あの男は請われるまま、殺人、否、殺神の罪を負っただけなのだ。言うなれば自殺幇助である。
 それでも。彼を死なせた事は嘆いても、命を断つ事に戦きもしない様を見せられては、湧き上がる怒りを抑える事は難しかった。
 そんな折りである。ハクビーズが隠居を申し出たのは。
 順当に持ち上がって外務庁の長官に就いたコルドは、引き継ぎの際ハクビーズからある秘密を打ち明けられた。
『ゴルデワに知られてはならん』
 それは、初めて聞くような上司の硬い声だった。
 聞いた瞬間は、馬鹿なと一笑した。しかしハクビーズの強い視線はコルドの口を閉ざすのに十分だったのだ。
 長く沈黙した後、誰なのかと問うた。しかし上司の口は固い。
『居る、という事だけ知っておれば良い。命が惜しけりゃ暴き立てようなどと、馬鹿な真似はするなよ』
 ハクビーズはその事実を彼の口から直接聞いたのだと言った。
 衝撃だった。
 彼がそんな秘密を抱えていたなんて。
『胸の内に秘めろ。口外ならん』
 その言いつけを守って、今日までいる。
 しかし紅隆、あの男を前にすると、溶接した鉄の箱から秘密を掠め取られるような気さえしてくる。それを克服するためだけに銃口に怯えながら無為な時間を過ごす事で鍛えようとする自分が滑稽だった。
 失礼します、と部下がコーヒーを淹れてやって来る。その後姿を見送って、黒々とした液体を嚥下した。熱さに喉を押さえて呻いたが、この熱が無ければゴルデワという氷山に呑み込まれ、こちらも凍りつかされてしまう。それだけは……。
 コルドは再び机上の笑顔に目をやった。
 何処にいるとも知れない、しかし確実に存在している影に神経を尖らせてきた十余年を思う。
 外に脅かされながら内にも疑いの目を向け、気配に怯える。
 成る程確かに、自分はハクビーズ程の度量は無いのかも知れない。ここへ来るゴルデワ人たち程の密度で人生を生きてはいなかったろう。自分の失策ひとつで神の首の挿げ替えくらいされ兼ねない。
 それでも。
 コルドは膝の間に落とした拳に額を当てて、絨毯敷きの床に向けて懇願するように死んだ男の名を呼んだ。



 給湯室から自分の席に戻ったその人物は、その後も黙々と要領良く自分の仕事をこなしていく。定時になると、残業に唸る同僚達を置き去りに一人帰り支度を始めた。お先に、と声をかけ悔しげなブーイングを背中に聞く。
 今日はほぼ一日世界王来襲の話題で持ちきりだった。彼が訪れたという霊園の方角を廊下の窓から鋭く睨みつけた。
 窓半分に広がる防風林。その向こうに、未だに鎖を掛けられた男が埋まっていると考えただけで、心が冷えていくようだった。
 何をしてるのかと、自嘲した。

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あきゅろす。
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