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 沈黙が場を支配した。
 隣の第二や廊下を行く人々のざわめきが音の全てだった。
「……普通……」
 その中で最初に口を開いたのは西殿一行の一番後ろにいた男だ。ヴィンセントである。
 下した前髪を鬱陶しそうに払いながら護衛官二人に言った。
「お前らは今の女を追いかけて拘束するもんじゃないのか、こういう場合」
 ぎょっとするサンテ人を置き去りにシモンとフィリーナは振り返って不満を示す。
「手荒な真似は一切厳禁だと言ったのは何処の誰?」
「それに、素人に真正面から殴り掛かられて避けられない方が問題だろ」シモンは未だに寝転がっている紅隆の頭を爪先で小突いた。「起きろ、おら」
 申し訳ありませんと頭を下げるタインに、前に進み出たヴィンセントがそれを止めさせる。シモンの言う通り、この場合は紅隆が悪い。もともとゴルデワに対して非友好的なサンテ人の女性にいきなり掴みかかったのだ。張り手──拳が飛んできても文句は言えないし、その程度で死ぬ男でもない。
 殴られた本人をそっちのけに、ヴィンセントは紙のように白くなってしまっている哀れな男を宥めにかかった。世界王の愚行を詫び、彫刻のように固まってしまっている局員達への箝口令を進言する。
「明日、もし辞表を提出されても受理してはいけませんよ。今のは全面的にこちらが悪かったのですから」
 起き上がった紅隆の頭を鷲掴み無理矢理下げさせる。「本当に申し訳ありません」一緒に頭を下げながら、無言の紅隆の爪先を踏み躙った。さすがに文句の籠もった視線が刺さってきたが黙殺する。
「……確か、キャネザ女史でしたね、彼女」
 頬の具合を尋ねられた紅隆は、仕事の途中で放り出されたままの机に手をやる。書類やらファイルやらが積み上げられ、端末も点いたままだ。
「はい……。あの、きつく言っておきますので」
 口を開けば謝罪の言葉しか出なくなっているタインに気にしないよう言い含める。刺さるヴィンセントの視線が強烈な呪いの気を発していた。
 机の隅にはあの擬似水晶体がある。その横に白革張りの小箱が置いてあった。
「先程のお話……直ぐにでもご案内したいのは山々なのですが、その……」
 紅隆はその小箱を手に取り、蓋を開けた。中には同じ意匠の指輪が二つ。
「勿論今すぐ本宮に踏み込めるとは思っていませんよ。ご連絡ならどうぞ」
 指輪の一つを手に取る。
「有り難うございます」
 タインは自分のデスクに取って返し、官房府と二柱へ世界王の来訪を通達する。当然受話器の向こうでは悲鳴が上がった。
 キャネザ女史の机の前で紅隆は再び硬直していた。何をしているとシモンに注意されたが全く耳に入っていない。全神経が、指輪の内側に刻印されたイニシャルに向いていたのだ。
 残りの指輪と水晶体も掠め取り、何食わぬ顔で空の小箱を元に戻す。戻って来たタインに従って世界王一行は第一執務局を後にした。
 一方職場で大事件を起こしたアリシュアは猛然と走り続け、遂には本宮の裏口までやって来ていた。追っ手が無いのを確認して無人の案内所の前を通りガラス戸を押し開ける。
 タラップを降り公道とを仕切る柵に手を掛けてその場に座り込んでしまった。
 とんでもない失態である。
 平素ならもっと巧く身を隠せた筈なのにと歯軋りした。
 高々夢ではないか。昔の悲しい夢。
 それをこんなにも引き摺って、情けない。
 声が、涙が、心が枯れ果てるまで狂う友の姿は、思い返すたび胸を抉る。だがそれよりももっと辛い痛みをアリシュアは体験してきた筈なのに。
 うんうん唸っていると大丈夫ですかと声を掛けられた。
「お帰りになるのかしら。車を呼びましょうか?」
 顔を上げると、柵の向こうにオルネラ・チェスティエが立っていた。

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