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 余程目に付いたのか、ファレスが何度も大丈夫かと訊いてくる。そう繰り返されると返事も億劫になり、唸って済ませた。
「……先輩、あの……もしかして……」
 無言で続きを促しても尻すぼみになった言葉はそこで途切れてしまった。資料の山の向こう側から辛うじて覗く額がそわそわと動いているのが見えた。
「何?」
 不調と苛立ちが混ざり合った声はこの上なく低くなる。びくりと身を竦ませたファレスはもごもごと口籠もって話を逸らそうとしているようだがアリシュアは許さなかった。
 怒らないで下さいねと前置きしたファレスが「悪阻ですか」とトンチンカンな事を訊いてくる。
 思わず「はぁ?」と声が裏返ってしまった。
「何それ、そんな訳ないじゃん。馬鹿かお前は」
「いや、でも」
「夢見が悪かったんだって言ってるでしょ。……ずるずる引き摺ってる私も悪いけど、あんた、いくらなんでも悪阻はないんじゃない? 生理来てるし」
 そうですか、小さく声が返ってきた。
 その思考経路の理由を尋ねてもファレスはまた口を噤む。殴るぞと脅してようやく喋った。
「前に法務省の人と噂があったじゃないですか。それで……」
 その噂の人物と昼間鉢合わせたばかりだった。
 いつもなら聞き流せる戯言も、今の体調と精神状態では難しかった。舌打ちし「一回でガキが出来てりゃ世話ないんだよ」と悪態を吐く。
「…………ごめん……」
「ほんと、大丈夫ですか?」
 頭を抱えてしまったアリシュアにファレスが立ち上がると、ずっと見ていたのかタインがやって来た。
「キャネザ、具合が悪いなら帰ったほうがいい。多少仕事が残っててもお前なら明日いっぺんに片付けられるだろう」
「いえ、でも」
「こんにちは」
 会話の僅かな隙間を突くように、後方から声が掛かった。仕事に追われながらもアリシュアたちを気にしていた第一執務局の面々は声の方、入り口へ顔を向け、皆一斉に血の気を引かせた。
 世界王紅隆がそこにいたのだ。
 それだけではない。彼は明らかに正装していたし、後ろには護衛が付いている。
 勿論外務庁は何の通知も受けていない。
 きゃあ、と短い悲鳴が上がり、衝撃が漣のように局内に伝播した。
 ジョイド・ローナンが紅隆だと知っているのは宮殿内でコルドとタインだけである。まさか世界王が毎週のようにやって来て世間話をしているとは誰も思っていない。忽ち浮き足立った。
「コルド氏は外出していらっしゃるそうですね」
 周囲の動揺が見えていないが如く自然に中に入って来た紅隆は、奥の長官室の扉を見る。
「貴方に代わりを務めて頂きたいのですが宜しいですか、イーガルさん」
 突然の事に絶句してしまっていたものの、名前を呼ばれてタインは息を吹き返す。待って下さいと叫んだ。
「仰る意味が分りかねます。いったいこれはどういう事です!? 事前の通知は頂いてはおりません」
「ええ」紅隆は微動だにしない。「抜き打ちですから、通知しては意味がありませんでしょう」
「西殿っ」
「以前提出した案件についてです。──お分かりですね?」
 タインはぐっと詰った。コルドはその件で元老院の一人、ユヴィオフスロウを訪ねているのだ。
 口内で苦虫を転がしながら少々お待ちを、と世界王一行を応接間へ誘う。部下に茶の用意を命じ身を翻すと、紅隆の硬直した顔が目に飛び込んできた。彼はタインの背後から目を逸らさない。
 何ですかと訊くのと紅隆が手を伸ばすのは同時だった。
 世界王の手に捕まったのは真っ青な顔のアリシュアである。
 痛いくらい左腕を握られ、朝からの不調と耳鳴りが彼女の理性を吹き飛ばした。
 気付いたときには紅隆を殴り飛ばし、お言葉に甘えさせて頂きますと叫んで鞄を抱え走り出していた。



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あきゅろす。
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