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 耳を押し付けた胸板から鼓動が聞こえる。
 体温の低い体は羞恥と緊張に火照ったフィーアスには心地良く、駄目だと分りつつも背中に回した腕を解きたくはなかった。
 半ば圧し掛かるように抱きついていると夫の体がぶるぶると震えだし、フィーアスは慌てて離れた。
「すみません、大丈夫ですか……? 吐きそうですか?」
 口元を押さえて顔を背けていた紅隆は、大丈夫だと左手を上げて示して見せる。しかし震えは治まらない。
 一気に血の気が引いた。注意が必要だと、ケイキにも言われていたのに。
「ヨウゴウさん、呼んできます……」
 ふらふらと後ずさると左手が伸びてきてフィーアスの腕を掴む。身を起こした夫は俯いてまだ震えていたが次に聞こえてきたのは笑い声だった。
 きょとんとするフィーアスを掴まえたまま一頻り笑った紅隆は、自分の隣に妻を座らせ笑いの残る声で謝った。
「すいません……、いや、オチは見えていたんですが……」
 再び笑いの波が襲ってきたのか、肩膝を抱えて再び笑い出した夫にフィーアスは困惑するばかりだ。何ともないのかと訊ねると肯定が返って来る。
 一応安堵したものの、紅隆が何故笑っているのかフィーアスには分らない。そう言うと彼は掴んでいた腕を放す。
「貴女らしいという話ですよ」
 紅隆の視線はあっという間にフィーアスから外れ、壁の飾り棚の上、黄色いヒヨコがでんと構えている為に傍らに追いやられた時計を見てこんな時間かよと呟いた。
「明日も仕事でしょう。もう休んだ方がいい」
 そのまま立ち上がり、一抱え程もあるヒヨコを持ち上げる。ぬいぐるみを玩びながらそういえば、と振り返った。
「シルヴィオはどうです? 頭に血が昇り過ぎてぶっ倒れたりはしていませんか?」
 もしそうならその原因の一端は確実に彼にあるだろう。しかしフィーアスは言わなかった。確信犯はにやりと笑っている。
「……あの人はいつも通りですよ」
「落ち着いたら一度サンテ政府にご挨拶に伺いたいと思っています。小言も聞いてやらないとストレスで爆発されても困りますしね」
 ワゼスリータの授業参観があった事をフィーアスは当日の夜に知った。無論、事前に知っていても行けはしないのだが、娘がこれまでもそういった行事連絡を握り潰していたのかと思うとやりきれない。
 翌日の昼過ぎ、上司から事実確認をされたときには彼の蒔いた種が芽吹いていたという訳だ。
 紅隆は立ったままヒヨコを捏ね繰り回している。フィロルが持って来たこのぬいぐるみはすっかり次女のお気に入りになっており、当初殺風景だったプライベートルームが今やミスマッチな玩具たちで装飾されている。夫とヒヨコの取り合わせも微笑ましい光景だ。
 その背中がこちらを向いてくれればどんなに嬉しいことだろうと思うのに。
「そういう訳だから調整しておけよ」
 声の低さにフィーアスはびくりと肩を揺らす。夫の視線を辿ると先程キリアンが出て行った執務室へ続く道にレダが顔を覗かせていた。
 ご苦労様ですと声をかけると彼は苦笑しながら頭を下げた。
「何だ? 直接殴られに来たのか、レダ」
「あははは、いや、まさか」
 面白いことやってるって言ってたからと続いた顔面に、紅隆はヒヨコを思いきり叩き込んだ。ドスッ、と派手な音がしてレダが崩折れる。
「大丈夫ですか!」
「お前ら、あんまこの人に妙なことを吹き込むな。身が持たん」
 顔を押さえたまま体を起こす。「またまたぁ」顔を上げたレダの目は完全に笑っていた。「結構エンジョイしてるくせに──がっ」
「コーザさん!」
 せっかく起き上がったところ頭を踏みつけられ、レダは床に額を激突させた。紅隆が踏み躙る度、ごりごりと音がする。落下したヒヨコはあらぬ方向を向いていた。

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