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はじめは窓を開けたのだと思った。
だが誰も何の操作もしていないのは分かっていた。相変わらず自分たちは座ったまま、ソプラナビア・ダルキエも以前変わらない。
OSと発電機からの排熱が籠っていた室内が解放されたように冷えていく。だが寒くはない。寧ろ気持ちが良いくらいだ。
経験はないが森林浴でもしているような心地になる。
緊張や疲労が溶けていく。それでいて頭も感覚も驚くほどはっきりしていたから、聴覚がそれを拾って開窓ではないと断定するのも直ぐだった。
歌だ。
目の前の男の口から発せられた歌が室内に涼とリラクゼーションを与えていた。
だが柔らかな歌声と違ってその表情はどこか苦しげに見える。視線と体はピタリとダルキエに向けられ真剣な様子が窺えた。
「あまり見ない方が良い」
キリアンはギョッとして空の筈の左隣を見る。いつの間にはアリシュアが移動してきていた。
「ヒーリングを目的にしていても視覚と聴覚からローレライを認識するのは危険だ。そういう実験結果が出ている」
キリアンはそれに従ってランティスに戻りそうになる視線をアリシュアに固定した。疲れているのか、メイクを落としたその顔はどこか青褪めているように見えた。
彼女は携帯端末を握りしめている。
「基本的に悪どいことしか考えてないから歌にもそれが反映されるの。だから頑張って楽しいことや幸せなことを考えないとダメなのよね」
流石にそれは言い過ぎだと思うが、実際にランティスの表情はどんどん強張っており、集中しているのが伝わってくる。
「……でもお陰でこちらの疲れも取れそうです。このところ碌に寝ていなかったので有難い」
首を回せばバキバキと関節が鳴る。やることも無いのだし今のうちに仮眠を取ったらどうかとアリシュアが勧めるがキリアンは気持ちだけ受け取ってそれを辞退する。
「現存しない筈の遺物が起動しようとしている時に寝てなんていられませんよ」
「現存しない筈……ね。それは私も同意見」
一切のデータが空の状態だったことがこのOS機の存続を分けたのだろう。ただしそのお陰で起動に時間がかかっているのだけれど。
頭部への衝撃でキリアンが目を醒ましたのは明け方だった。痛む前頭部を押さえながら顔を上げるとランティスがアリシュアにもチョップをしているところだった。
ソファに座りながらいつのまにか寝ていたらしい。体には毛布が掛けられていた。だが座ったまま寝ていた筈なのに横になって寝ていたように体が軽い。ローレライの歌の効果が如実に表れている。
蹲るようにして毛布を被っていたアリシュアが唸りながら顔を上げる。
「終わったぞ」
その一言にまだぼんやりしていたキリアンも一気に目が覚めた。振り返ると小さなOS機器の真上から投影された文字一色のホログラムが天井を直線に這って広い室内の内ドアにまで伸びている。それらは一文字ずつ波のようにうねっており、唐突に消えた。
代わりに待機画面の空間ディスプレイが天井を覆う。
「よく眠れたようね」
キッチンから出てきたダルキエが左手のカップをランティスに差し出す。コーヒーの香りが鼻腔を擽るが寝ていた自分たちの分は無いようだ。
「すいません」
「謝るようなことじゃない。ただの役割分担でしょ」
猫舌なのか、ダルキエはカップに息を吹きかけるだけでなかなか口を付けない。
何も聞かず協力を要請したのはこちらだし、彼女はそれを守ってくれている。ここは何処だとも彼らは誰だともこれは何だとも言わない。プロ意識によるものだろうが、ジオは自分たちに何を造らせているのかと激高して乗り込んできたかつての経緯を鑑みるにその無言がキリアンには居た堪れない。
来た時同様アイマスクを着けさせたダルキエを無事に送り届けるともう始業時間を大幅に過ぎていた。
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