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誰も居ない部局は何やら不気味な様相を呈している。
それも仕方ないだろう。深夜を大きく回ったこんな時刻では、何処に居たところで大差ない。
ぐったりと椅子にもたれながら終わらない仕事を片付けていたフィーアスは、休憩という大義名分で手を止めた。こうも頻繁に休憩していれば終わらないのは道理だが、如何せん集中できないのだ。
今日は、ワゼスリータの親友の母と祖母が揃って事故に遭ったと聞いて、午後から仕事を抜けて学校の終わったワゼスリータと待ち合わせて見舞いに行った。それにしたってこの片付かなさぶりは一体なんだろう。先日の新薬発表の際、無断でゴルデワ側に声をかけた件の制裁としか言いようが無い量なのである。
淡々と資料を差し出したマイデルの顔を思い出すだけで特大の溜め息が出てくる。
「はぁ」
机に突っ伏したまま、フィーアスは抽斗の中からクリアファイルを取り出した。今回夫が置いていった離婚届だった。
シンポジウムの後、接待回りをして倦怠感と酔いとでフラフラしながら帰宅したら、フィーアスの部屋の机の上に当然の如く置いてあったのだ。今回はあっさり引き下がったからもしやと思っていた。けれども夫は、そんな淡い期待を涼しい顔で打ち砕いた。
自分や子供たちの身の安全のために彼がこんな紙切れを用意しているのは分っている。それでも突きつけられる度、フィーアスの心は乱れ、血を流しているのだ。
ある時は泣き喚いて、ある時は怒って、ある時は無理矢理笑って、戻ってきた彼の前で置いていった離婚届を引き裂いた。
形だけの政略結婚なんだ、愛してなんていない、鬱陶しい、必要ない。酷い言葉を彼は平気な顔で言う。それなのに、弱っているときだけは求めてくるのだ。
卑怯な人。
前回がまさにそうだった。
体中傷だらけで血塗れで、生首三つと死に掛けの女性を一人引き摺って帰ってきた。彼らは夫にとってとても大事な配下達だったらしい。それでも、その手で討たねばならなかった。
夫はフィーアスを見つけると首らをビャクヤに預け、ふらふらと近寄ると抱きついてきたのだ。何の治療もしていない、傷も剥き出しで出血も激しい中である。
彼は泣いていた。意外に綺麗な彼の直筆を見ていると、その時突き立てられた爪の痛みが、今も背中に蘇るようだった。
寂しい人なんだと思う。
孤高と言えば聞こえはいいが、他を寄せ付けない生き方は見ていると痛々しい。何にも興味を持たず、全てを捨てて、ただ、遥か遠くにあるという死を希む。
傍に置いてくれるだけでいい。こちらを見てくれなくたって構わない。
その存在を、感じていたいだけなのだ。
知らず知らずに浮かんでいた涙が、つうと流れて机を濡らした。
自分が泣いているのが分ると、触発されて涙が増産される。後から後から溢れ出し、終いには吐き出す息にも涙が混じる。無人の部局に啜り泣きが響いた。
いつ戻るとも知れず、無事に戻れるとも限らない。世界王権を側近に移行させるとはそういう事だ。
フィーアスは洟を啜って立ち上がった。頭を冷やしてこなければ。これでは仕事どころではない。
化粧室に立ってメイクを落として顔を洗う。ポーチから、小瓶に移した基礎化粧品を取り出して洗った顔につけ、手を洗った。まだ目は腫れぼったいし気持ちが晴れた訳でもない。それでも何とか奮起し、薄暗い廊下に出る。
ガラス窓の向こうに見えるのは本宮だ。世界王紅隆と初めて会ったのは、あそこだった。
ぽつぽつと明かりの点いている窓がある。まだ誰かいるのだ。
こんな時間まで大変だなと思うと同時に自分も同じ状況なのだと気付き、ずっしりと背中に重みが掛かるようだった。
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