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 オーディションで選抜されたメンバーには後日全曲分の楽譜と練習指導要項が配られた。
 予選が通ったとしてもどの曲に振り当てられるか分からない。曲が分かってから練習したのでは到底間に合わないので、外務庁は毎年事前に全曲練習して予選に臨んでいるのだ。
 練習と言ってもメンバー全員が集まれる時間は少ない。下手をすれば予選前数時間から一日程しか無く、毎年悩みの種だった。
 講師ランティスもそんな事情を鑑みて無理に集めようとはしなかった。それ以上に力を入れているのが個人の基礎能力のアップだ。
 それを表す一文が要項の中に書かれている。曰く「毎日腹筋」。他にも「日常での腹式呼吸の実践」や「表情筋の運動」など。
「腹筋って、どれくらいすれば……」
 目出度く選ばれた――人数合わせのため妥協に妥協を重ねた結果だが――ファレスに尋ねられたランティスは、仕事中のアリシュアを立たせると「これくらい!」と言いながらその鳩尾を思い切り殴った。
 一瞬対策本部は騒然となるが、殴られた本人の異常の無さにかなり手心が加えられたようだとホッとする。しかしそれは間違いだ。
 殴られたアリシュアは鳩尾に相応の痛みと衝撃を感じていた。ファレスが「それくらいなら今でも十分いけるんじゃないかな」と笑い、ランティスも楽しそうに頷いている。
 アリシュアはそのランティスの肩を掴んで振り返らせると、無造作に腹部に拳を繰り出した。
「!!」
 ランティスは呻きながら腹を押さえて膝をつき、アリシュアはそれを冷徹に見下ろし吐き捨てる。
「あんたこそ腹筋鍛え直した方がいいんじゃないの?」
 その一部始終を見ていたキリアンは砦の中で恐怖に慄く。ランティスが大袈裟に痛がっている訳ではないのを理解していたからだ。
 この対策本部に出入りする以上、キリアン自身にいつあれと同じ災厄が降り注ぐか分からないのだ。それどころか、威力が同じでも惰弱な自分の肉体ではただでは済まないのも想像に難くない。キリアンは改めて自分の引いた貧乏くじを呪う。
 この時既に月陰城では世界王南殿が身分を隠してエルジア公爵の居城に出向いている。護衛も兼ねてエテルナが同行しているので西方の負担はいや増していた。
 講師が悶絶した数日後の深夜、エテルナの存在がどれ程大きかったかというのを物語る事件が起きた。サイノがコーヒーを淹れようとしてキッチンを丸々駄目にしたのだ。薬缶が火を噴き、火災を止めるためにスプリンクラーが作動してキッチンの電気系統がやられてしまった。出てきたコーヒーも土でも入れたのかと疑うほどの出来で、飲まされたレダが胃洗浄する羽目になり、夜中にも拘らずワゼスリータに希って淹れ直してもらう事態に発展したのだ。
 あの時ばかりはアミンの誘いに感謝した。
「随分仲がいいのね」
「いけませんか?」
 ランティスが頻繁に出入りし始めたのもあって、このところアリシュアの機嫌は頗る悪い。けれどキリアンもいつまでも怖がってはいられない。
「ギヴアンドテイクです。俺は彼女から信用を得、彼女はお喋りの相手を得る。お子さん方や亡くなったご主人の話をよくして下さいます。他の方は嫌がるようで」
 寵を得たいか否かの違いだ。
 西殿側近の思惑などアミンも分かっているだろう。
「分かったら出て行ってもらえますか。ここ、男子トイレですよ」
 着替えに入ったところ、戸を閉め切る前にアリシュアが追って来たのでキリアンは彼女の前でストリップをする羽目になっている。
 用を足しに来た男性職員たちも中に女がいるのを見て腰が引けている。流石に場の空気を察したのかアリシュアは肩を竦めてキリアンの入っている個室の戸を閉めトイレから出て行った。
 ワイシャツに袖を通したキリアンは激しく脈打つ心臓を押さえて深呼吸をした。





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あきゅろす。
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