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 九十一日、外務庁第一から第三執務局勤務の全職員に楽譜が配られた。これは現在、対策本部付となっている者も例外ではない。
 月が替わり日曜を挟んだ二日月曜日から一週間、講師による合唱団オーディションが開始された。
 当初出されていた前提条件は実行不可能となり、事情を汲んだ講師が妥協してくれたのだ。
 外務庁は勿論、対策本部も五日の一般開放には関与しない。本来なら民間人を迎えている場合ではないのだが、中止などすれば国民が訝る。ジオが大金をばら撒いて口封じをした意味が無くなってしまうのだ。
 二日から始まったオーディションは時間のある者から順に行われた。平時でも作業速度が緩くなる一般開放日になると遂に対策本部付の者にお鉢が回って来る。遠くに喧騒を感じながらランティスだけを観客に歌わされるのだ。
 アリシュアに順番が回ってきたのは就業時間間際のことだった。今日はこれで最後らしい。楽譜を手に渋々オーディション会場になっている五階にある会議室へ向かった。
「はい合格」
 中に入った途端面倒くさそうに言われたアリシュアは顔を顰め、荒々しくドアを閉めて自分に注意を向けさせた。
「私の強制参加はこのオーディションまでだろうが」
 本番で歌う気など端から無い。それは以前から伝えていた筈だと怒るとランティスは名簿らしいバインダーを手の甲で叩いてごね始めた。
「俺の眼鏡に適う奴が少なすぎるんだよ。お前レベルまで基準下げてもまだ足んねーけど」
「歌なんて歌えない」
「は? 馬鹿言うな。昔キースやヒンクライエンドルマと歌ってただろ。知ってんだぞ」
 あれは違うといくら言ってもランティスは取り合わない。終いには講師を降りるぞと脅され渋々引き下がった。
 対策本部に戻る前にアリシュアは第一執務局に立ち寄る。同僚たちが仕事に励む中、鞄から白皮張りの小箱を取り出す。指輪を無くして以降空だったが今は小さな水晶石が入っていた。箱ごと持って外務庁を出る。
 外務庁の外は片付けの真っ最中だった。若い者は所属も関係なくこぞって駆り出され忙しなく動き回っている。
 息子に会えればと思ったがやはり無理だろう。
 作業の邪魔にならないように人波を縫うように歩いて外に出ると、夕闇がそこまで迫っていた。
 ジオはただで一般開放を許したわけではない。外部ゴルデワ人の侵入が判明しているのを理由に警備要員を送り込んでいる。無論知っているのは外務庁だけだ。
 光学迷彩で隠れられこちらからは認識できないが、それでも気配を探りながら建物を周る。
 エレ二・クレウスが拘束されて以降、春宮は閑散としている。原因不明のままのため元老院も使いたがらず半閉鎖状態なのだ。
 アリシュアは人気が無いのを確認すると小箱の蓋を開け春宮の白壁に水晶石を向ける。するとその一点からさざ波のように光の波紋が広がっていった。
 術式がまだ残っているのだ。予想していたこととはいえアリシュアは嘆息する。
「こんばんは」
 片手のみで蓋を閉じポケットに小箱をしまう。殆ど反射だった。
 アリシュアはゆっくりと声のした方を振り返る。
 春宮の陰に入っているアリシュアとは対照的に、その女は沈みゆく夕焼けを全身に浴び色濃く影を纏っていた。その距離わずか五メートル程。
「貴女、確か外務庁の方ですよね。よろしかったら対策本部まで案内して下さらない?」
 それが誰か分かって、アリシュアは自分が安堵していくのを感じた。肘まで袖のあるネイビーブルーのシフォンワンピース姿のヘザーは小首を傾げてこちらの返答を待っている。
「……ええ、勿論」
 場所が場所だけにチェスティエの姿が脳裏を過ぎっていた。
「どうぞ」
 すらりと伸びた足元は白のスリングバック。アスファルトの上だというのに殆ど足音がしない。成程、「軍属」だ。





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あきゅろす。
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