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 脳内では今日の業務予定が駆け巡る。寝落ちてしまった分を取り戻さなければならないが、過ぎ去った時間分のロスはかなり痛い。
 正直、今直ぐ戻って取り掛かりたいが、これを放置する訳にもいかなかった。
 一番悪いのは紅隆なのだが、フィーアスにも非はある。自分で自分の幸せに限度を決めてしまいそれに雁字搦めになって前にも後ろにも進めないのだ。
「別に紅隆の望む通りにする必要ないじゃないですか」
 フィーアスはいよいよこちらを向いてキッと睨んでくる。そんな事をすれば本当に捨てられるとでも言いたそうだったが、キリアンからすれば不可解なことを言っているのはフィーアスの方だ。
「紅隆は貴女にぞっこんですよ」
 言い方が気に入らなかったようでフィーアスの顔はますます険しくなる。また「キョウダさんが」と言い出したのでキリアンは溜息を吐いた。
「じゃあアレの望み通り何もかも全部捨てればいい」
「止めて下さい!!」
 突然、激高したフィーアスは力任せに机を叩いて立ち上がった。同僚たちがぎょっとして彼女を振り返るが本人の目には入っていないだろう。
「そうやって私を試すのはもう止めて下さい! ヴィンセントさんもキリアンさんも他人事だと思って……。私は別れたりしないし仕事も辞めたりしない!」
 ヴィンセントが彼らの離婚を勧めたとは初耳だったがキリアンは顔には出さず無表情を貫いた。
 ハラハラしながら側で見守っていたカウラが声を掛けようとしてきたがキリアンは手を上げてそれを制す。
「ヴィンセントは貴女を利用している筆頭ですから、流石にそろそろ良心が痛んだんでしょう。――フィーアスさん、アレは確かに本当のことしか言いませんが、あの時は怪我と血臭で完全に錯乱していたでしょう」
 その口から放たれた刃はフィーアスの胸を貫き、この一月弱で肉を腐らせたのだろう。
 時間が経つにつれ腐敗は広がり、不安と猜疑心を生む。それらは恐怖を呼び込み体の自由をも奪ってしまう。
 とうとう身動きが取れなくなった彼女の悲鳴もキリアンの胸には響かない。ちょっと拗れた惚気話と大差ないと思っているからだ。
「理性がぶっ飛んでいる時のアレの生態は貴女の方がご存知でしょう?」
 流石に過去数度の経験の記憶が興奮状態の頭に冷水を打ったようで、怒らせていた肩が徐々に落ちる。それでも抵抗を見せたのでキリアンも更に打って出た。
「それからその名前、紅隆は、貴女には許しても余人には知られたくないと思っています。こんな耳目のあるところで連呼しないで下さい、言いつけますよ」
「!」
 フィーアスは慌てて口を押えるが、今更だ。すいません、とか細くくぐもった声で詫びた。爆発したおかげか、怒りはすっかり萎んでしまったようだ。
 けれど不安そうにしているのは変わりない。
 だが、キリアンがいくら言葉を尽くしたところで「お前が妻であったことなど一度もない」という暴言に上書きすることは不可能だろう。それが、制御も全て取り払われた紅隆の素の状態である彼に言われたのだから尚更だ。
 再度時計を確認する。本当にもう戻らなくてはならない。
「フィーアスさん、良い機会だから言いますけど、貴女が紅隆を愛してくれているのは非常に有難いことですが、それを職場に持ち込むのはお止めなさい。貴女の仕事が滞るばかりか紅隆の状態が筒抜けになってしまうでしょう」
 カウラを省みて「ね?」と微笑んでみれば、彼はしっかりと笑い返した。そういう目的が無ければあの長官がこんなに面倒臭いものを長年放置する筈かない。
 対策本部に戻ったキリアンに更なる試練が襲い掛かる。自分の仕事が終わり次第手伝うとアリシュアが申し出て来たのだ。定時に上がれないのは覚悟しているとまで言われ、その申し出を受け入れざるを得なくなった。





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