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外は既に闇の時間。
人通りの絶えた道を街灯が虚しく照らす。
唯一の例外は歓楽街――この辺りで言うならサマルだけだろう。
深夜時刻は殆ど外の見えない月陰城内でも適用されている。如何にフレキシブルに休憩時間が取れるといっても生き物が本来持つ体内時計を狂わせるのは良いことではない。
故に照明光度は夜間五十%下がり薄暗い。時間によって人の往来が絶える箇所は昼間でさえ照明を切っているくらいだ。
世界王西殿のプライベートルームも例外ではなく、駐留している夜勤当番が大きな欠伸をした頃、リビングに向かう途中だったサイノは進行方向の先の廊下の角に不審な背中を見つけてそっと声を掛けた。
「何してるのよ」
振り返ったエテルナが答えるよりも早く、同様にそちらを覗いたサイノは状況を理解していた。この角を曲がった短い廊下の先にはメインベッドルームがある。いつもなら子供たちのお昼寝用にしか使われない部屋だが、今は本来の用途で用いられていた。その部屋の前に佇む女の背中がある。
「…………三十分前にもああやって突っ立っていたけど」
「え?」
エテルナは眉尻を下げて再び廊下を覗く。声を掛けるべきか否かを迷っているのが傍目にも分かった。
「無粋なまねをするもんじゃないわ。こればっかりは無理やり背中を押してどうにかなる問題じゃないわよ」
「……ああ妃殿下、お労しい……」
サイノはため息と共に今にも涙ぐまんばかりの同僚を引きずってその場を立ち去った。
見られていたなど全く気付いていないフィーアスは自分が何分そうしているのかも自覚していなかった。
夫が目を覚ました、退院したと聞いてから決心が決まらないままずるずると月を跨ぎ、半月になろうとしている。今日、ようやくここまで来られたのに、このドアが開けられない。
結局踵を返し自宅に戻り布団を被ってしまった。
愛憎をぶつけられたあの日以来、フィーアスは夫に会っていなかった。退院するまではともかく、その後も。相変わらず向こうからの接触はなかったしこちらからも行くことが出来なかった。確実に会えないと分かっているときは身を切られるほど心配だったのに、会えると言われて途端に恐ろしくなったのだ。
周囲の人々は「それでもいいよ」と言ってくれる。当然だと。
けれどその同情が今は辛い。あの時のようにそれ以上は近寄らないでくれとはっきり拒絶された方がどれだけいいだろう。
退院し、外務庁長や厚生労働省長らと面会した二日後、世界王西殿は高熱で倒れた。
キリアンからの報せに頭では行かなければと思ったが全く足は動かず、そうですかと言って電話を切ってしまったのだ。家に帰り殆ど義務感だけで月陰城へ入ったが、出迎えたヨウゴウは容体の説明はしても今度は近づくなと言ってはくれなかった。
動けずにいるのを見兼ねてサイノが助け舟を出してくれなければヨウゴウとにらめっこをすることになっただろう。
ワゼスリータでさえあの後父と会ったというのに、何と情けないことか。
翌朝、義務感だけで再び城に向かうと、リビングのソファに鮮やかなオレンジ色が座っていた。
「!」
傍らにはヴィンセントが、向かいにはケイキがいるのが見える。
紅隆は丁度薬を飲んでいたらしく水の入ったグラスを傾けていた。その視線がこちらに向けられ、フィーアスは彫像のように固まる。
彼はゆらりと立ち上がるとこちらに向かってやって来る。フィーアスはいよいよ蛇に睨まれた蛙のように息をするのも忘れ、目の前で立ち止まった夫を見上げた。
「お早う、フィーアス」
その瞳の色についに緊張の糸が切れた。
バチン! という音の直後、右の掌の感触とじわじわと広がる痛みに我に返る。見れば夫は打たれた勢いのまま顔を戻さない。
恐怖のあまりフィーアスは無言で逃げ出した。
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