167 鍵盤に指を這わせる。 硬く冷たい感触が表皮を刺激した。その指を動かせば調律の行き届いた音階が広い音響ホールいっぱいに流れた。 三者三様の視線を尻目に、男は椅子に座ってペダルの感触か確かめると、鍵盤の上で指を躍らせ始める。ついさっき出した音の羅列が雨ならば、この奔流は津波に等しい。そう感じるほどの音量と圧倒的な調べがホール内を支配した。 ピアノも弾けたのかと感心する以上に感嘆した。不覚にも涙が滲みそうになったところで隣から制止の声が掛かった。 「ランティス!」 今まさに歌いだそうと口を開けた男は、制止の怒号に動きを止める。中途半端なところでメロディが止む。口を開けたままこちらを振り返り、静かに閉ざす。コルドの右隣に立つタインのそのまた向こうから肩を怒らせ憤怒の形相を張り付けたアリシュアが一歩進み出た。 「もういいだろう! 馬鹿かお前は!!」 アリシュアはヒールの足で一飛びに舞台上へ上がると、片隅に追いやられたピアノに命の音色を奏でさせた男の頭をバシリと叩いた。どちらにも驚いたのか、タインは三歩下がって客席に座り込む。コルドも同じように腰を下ろしながら、舞台上のやり取りを眺めることにした。 打たれた頭を擦りながらランティスが文句を言うが、アリシュアはもう一撃平手を見舞って封殺する。 「こんな響くところで歌いだそうとする奴があるか! 何考えてるんだ!」 「痛えって! わーったわーった。ちょっとそんな雰囲気になっただけだろ」 「死ね!」 ランティスは立ち上がって鍵盤に指を滑らせる。高音から低音にかけて軽やかな音階が鳴った。 「ちゃんと調律もされているし、こいつは準備万端だ」 側板を叩いて鍵盤蓋を閉じる。腕の一振りでいきり立つアリシュアを退かせると、客席の人となっている外務庁長官副長官を見下ろした。親指で斜め背後のアリシュアを示す。 「このアホも含め外務庁全滅ですが……どうします? 私は別に講師を降りても一向に構いませんよ」 そうなのだ。 エレ二・クレウスの一件から始まる一連の騒動は、ランティスが提示した歌唱指導条件のオーディション参加要項の一カ月間という期間に早々に被ってしまったのだ。 無論事は国家の一大事である。何か月も先の黎明祭の合唱練習と比べることが間違っているのだが、ランティスは簡単に譲る気はないと言う。 ここへ来る道中、アリシュアが事態を洗い浚い説明――箝口令も無視して――したが、彼は首を縦には振らない。 ランティスからしてみれば、いつ終わるともしれないこの騒動の収束を待つ程暇では無いと云うところだが、これにアリシュアが難色を示したのだ。 「暇じゃないか」 更に 「ボケッとしているくらいなら手伝え」 と言い放つ。さすがにこれは止めたし本人も嫌がった。 不可抗力とは言え、外務庁としても職員たちのやる気を萎えさせるのは忍びない。本当はこんなことをしている場合ではないのだが、何とか譲歩を引き出そうと彼の要求を呑んで毎年予選を行う会場への入場許可を取って来たのだ。 外務庁のトップ二人が困り果てているのを見てランティスは後ろを振り返る。 「そもそも、根本的な原因はお前がさっさとシメておかなかったからじゃないのか? だからいざって時に使えないんだよ」 「私は自分の身の丈に合ったことを精一杯やっている。非難される謂れはないな」 ランティスは肩を竦めて身体ごとアリシュアに向き直る。 口というスピーカーが後ろを向き僅かに聞き取り難くはなったが、彼は音量を抑えた訳ではなかったのでこの台詞はコルド達の耳にもしっかりと届いた。 「身の丈……。その茶番のか?」 この時、丁度良く終業を告げるチャイムが鳴った。出鼻を挫かれたアリシュアは顔を背けて呟く。 「そう思っていたのは最初の二か月だけだ」 [*前へ][次へ#] [戻る] |