153 ルシータの収集した視覚情報の鑑賞会を翌日に控えたキリアンを悩ませているものがある。 あの日、シーズヒルから逃走した「隊長」を未だに見つけることが出来ていない。政府の知らない次元口を使ってゴルデワへ逃れたか、未だ民衆に紛れているかのどちらかだろう。 そのせいでサンテ上層部――元老院の一部は半狂乱になって呂律も怪しくなる程キリアンを責めたてる。そうやって呼び出されている間、仕事は完全にストップしてしまい、これに対して文句を言えば「殺される!」と騒ぎ立てるのだ。 ゴルデワ人はみんな人殺しの経験があると信じているようだが、生憎キリアンにはない。ナイフを人に向けたことも銃を撃ったことも無い。勿論、そんな議論は時間の無駄なのでしなかった。 勿論それも悩みの種ではあるが、真に彼を苦しめているものが他に有った。 それは通勤と服装である。 通勤はロブリー家から官舎のフィーアスの部屋へ直通なのであとは数分の道のりだけ。けれど長年ワンフロア内で起居し仕事をしているとこの数分がきつい。更に月陰城では普段身なりを気遣う事はなかった。寝癖が付いていようがTシャツにジャージだろうが、外の人間に会う訳ではないので一向に構わない。けれど宮殿ではそうもいかないのだ。 職員は基本私服だが、まさかTシャツにジャージではない。 女性は髪を整え化粧をするし、男性はネクタイを締めている者が半数近い。 キリアンは我知らず首を絞めつけるネクタイを緩めていた。 「外しても構いませんよ?」 その声にはっと顔を上げる。アリシュア・キャネザが微笑みながらコーヒーを出した。 キリアンの席は対策本部内に設けられているが上座に位置する本部長、副本部長席からは遠い。それほど大きくもない会議室だが、ゴルデワ人のキリアンの周囲は閑散とし代わりに上座周辺は大変な混雑だ。 キリアンのところへ来るのは上役二人かこのアリシュアだけである。 「…………あー、では、お言葉に、甘えて……」 極力彼女を見ないように目線を逸らしながらそろそろとネクタイを外し、上着のポケットに突っ込んだ。ワイシャツのボタン上二つを外し呼吸が楽になる。が、目の前の女から発せられる威圧感のお蔭で背中に冷や汗が滲んだ。 用は済んだ筈なのに立ち去らない彼女を恐る恐る見上げたキリアンは、忽ち自分の行いを後悔した。 笑っているのは口元だけ。 (殺される!) とキリアンが背筋を震わせるほど、その目は恐ろしかったのだ。 「一昨日の晩、ダロクが妙なことを言ってたんだけど」 「え、はい」 ひそめた声さえも怖い。ビクビクしながらも一昨日? と内心首を傾げる。 「六合のディディアンカイザーが来ているそうじゃない」 キリアンは内心の動揺を抑えながらにこやかに応対した。 「それも明日、併せてご説明しますよ」 無言で去っていく小さな背中にどっと脱力して額の汗を拭う。 何度でも言おう。自分は確かにゴルデワ人だが、人を殺したことはない。善良な一市民に過ぎないのだ。 それが何を間違ったか今では月陰城のトップである世界王の取り巻きになっているが、そんなことは関係ない。 声を大にして言いたい。怖かった、と。 昼を告げるチャイムが鳴るとキリアンは弾かれるように立ち上がり、そそくさと会議室を飛び出した。廊下を走り人気のない区画まで来ると携帯端末を取り出して電話を掛ける。 「マジで勘弁してほしいんですけど。ちょっと、誰か替わって下さい」 勿論紅隆重症のこの状態でそんな泣き言が通用する筈も無く、ヴィンセントの叱責とレダの軽口だけを聞かされて一方的に通話を切られる結果となった。 とぼとぼと対策本部に戻ると丁度フィーアスがやって来てお昼に行こうとキリアンを誘う。 精神的に疲弊したキリアンには彼女が女神に見えた。 [*前へ][次へ#] [戻る] |