152 なかなか来ないエレベータに痺れを切らし、階段を駆け下りる。 終業時間を過ぎたとはいえまだ大勢職員が残っており、一階に辿りつくまで何人もと擦れ違った。 ようやく中央ロビーまで下り、目当ての人物を探す。待ち合わせの時間を三十分も過ぎてしまっているからいないのも覚悟していたが、相手は待っていた。 「…………」 吹き抜けの天井を支えるため、ロビーには太い柱がぐるりと周囲を囲っている。その内の一つの側に居た目当ての人物は、どうやら取り込み中のようだった。 その人物に向かって、男性がしきりに頭を下げているのだ。下げられている方は困った様子で頭を上げさせようとしている。 遅刻している身だが邪魔するのも悪いかと離れたところから見守っていたが、攻防は僅か数分で終わった。去っていく男性の背中を目で追いながら相手に近付く。 「今の誰?」 「わ! やだ……、見てたの?」 だったら助けてよ、と彼女はぼやいた。 「いつだったか、交通事故に行き会ったことがあって。今の人はそのとき応急処置をした人のご家族で、お陰で助かったとお礼を言われていたのよ」 「会ったことがあるってこと?」 「病院まで行ったから、そのとき私の顔を見たんですって」 顔の右半分が髪で隠れているのによく分かったなと思ったが、そのヘアスタイルも含めて記憶していたのだろう。 今日はプライベートで来ているから長い黒髪も流したまま、綺麗な花柄のワンピースに踵の高いサンダル姿だ。 この姿を見て今ロビーを行き来する人々の誰が想像できるだろう。彼女が、衣服が汚れるのも厭わず事故現場に突入し、誰もが目を背けるような悲惨な傷にも眉一つ動かさずメスを入れ手を突っ込み縫合したことを。 連れ立って外に出ると既に日が傾き始めていた。 二人を乗せた車はゆっくりと進み出、国会議事堂敷地内を出て行く。街に灯り始めたネオンを眺めていた女は良かったのかと運転手に尋ねた。 「何が?」 「対策本部付きになってるんでしょう? 忙しいんじゃない?」 車はゆっくりと左折する。大通りに入ると交通量はぐんと増え、車のスピードは反比例して落ちる。 「……うーん、事務的なことはみんなあの秘書官がバリバリやってくれているから。寧ろ上層部の混乱ぶりの方が大変」 十五分ほど走った車は飲食街のど真ん中で停車した。高級レストランである。 受付で予約してある旨を告げると直ぐに店内に通された。緩やかな調べが流れる落ち着いた店内だった。テーブル同士の間も広く、大声を出さない限り会話の内容が漏れる心配もそうない。 二人が現状報告をしあいながらコース料理に舌鼓を打っていると、カメリエーラが若い男を導いてやって来た。青年のために椅子を引き、グラスにソフトドリンクを注ぐ。 「息子よ」 短い紹介に黒髪の女は笑顔を見せて青年を見つめた。彼はぺこりと頭を下げて自己紹介する。けれどその顔には疑問符が見え隠れしており、ワインを瓶ごと確保している母にちらちらと視線を注いでいた。 女の方もそれに気付いたのだろう。笑いながらごめんなさいと謝り自らも素性と青年の母親との関係を明かした。 「えっ……」 青年は女の左目を見返した。空のような青い瞳が弧を描く。 「……そう……なんですか……」 「ええ、そうなの」 「それは……どうも……」 青年の前に料理が出される。けれど先程と同様、ワインが注がれる様子が無い。 「あたしらもう飲んじゃったから、あんた運転手してよ」 何杯目なのか、グラスを空ける母が軽く言う。そんな事だろうと思っていたので青年は不満を言わなかった。 食べている間、黒髪の女の視線がねっとりと青年に絡みついて離れなかった。事情を聞いていなければ嫌悪感すら抱きかねない程の生温い視線に、彼は時折哀惜が見えるような気がした。 [*前へ][次へ#] [戻る] |