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 第一執務局でキースレッカを見送ってから一時間半が経過した頃、再びランティスが現れた。
 てっきり二人して帰るものだと思っていたが、ランティスは引き続き残るという。
「戻ってもやることないし。暇すぎて死にたくなるんだよ」
 では死ねとアリシュアは内心悪態を吐く。
「それに弟子の指導も残ってるしな」
 イリッシュの恋人の歌唱指導である。そういえばそんな約束だったと思い出した。
「お前の暇つぶしに付きあう暇はない。見て分かるだろ」
 アリシュアの助けで書類は随分減ったが、ファレスの周囲はそれでもまだ塔を形成している。というか、第一執務局内のおよそ六割は同じような状態だった。
 ランティスはそれを「ふーん」と言いながらぐるりと見渡した。鼻で笑っているだろう心中がアリシュアには透けて見える。
「さっきの話、本当なのか?」
 聞き返すとミトスの子供の話だと偉そうに腕を組む。
 ファレスの傍らに陣取り細々と調整していたアリシュアの視線は完全に手元に向いている。煩げに舌打ちした。
 昨日のことがあるのでアリシュアの不機嫌にファレスは身を固くする。
「キースに言う必要ないだろう。これまで胸に留めて来たなら墓まで持って行けばよかったのに」
 応えないアリシュアにランティスは更に言い募る。
「何か考えがあってのことだろうが、あの子は父親以外の血縁者なんて望んじゃいない。知ってるだろう?」
 勿論承知の上だ。
 まして父の知らないところで存在していた子なら尚更「他人」だろう。分かっていたことではあるが、実際にあの子の口から出ると堪えた。
 キースレッカの産みの母は夫の死に耐えられず、その存在を己の脳内から抹消することで命を繋いだ。徐々に快復していく姿にほっとする反面、アリシュアは悔しかったのだ。
 人は肉体が滅びて後、他者に忘れられて初めて本当に死ぬという。
 そういう意味で彼女は彼を抹殺してしまった。
 しかし彼女が愛した筈の男を忘れても、二人の時間が消えた訳ではない。ミトスが知らなくても、彼女の過去にはクウインドとの出会いがあり紆余曲折があり結婚があり三度に亘る妊娠があり出産があった。キースレッカと言う存在はそれら全ての証明に他ならない。
 同じことがアリシュア自身にも言えたのだ。
 結婚する前、後に夫になる男が己の不甲斐無さと世の無常を嘆いたことがあった。無論一時の感傷だったのだろう。しかし友人一家の盛衰を目の当たりにしたアリシュアには酷く身につまされた。
 結婚して子供でも作れと言うと男は苦笑した。周囲からも同様に言われていたらしいが仕事に忙殺されている自分に望めるものではないと諦観していたのだ。
 冗談混じりながらも自分が産んでもいいなどと言ってしまったのは、無論――実情がどうあれ――友が羨ましかったからだろう。
 その夫を喪った今、自分たちの関係を証明するのは息子の存在に他ならない。
 キースレッカが血の繋がりを軽んずることは即ち、そう信じてきたここでの暮らしを根底から否定されるに等しいことだった。
「だいたい、俺は遺産の件で保証人になってるんだ。他にも相続権保持者がいたなんて今更言われても困る」
「……確かイーサーもでしょ?」
 ランティスの眉尻がピクリと跳ねた。
「……解散後も弁護士との調整が入ってたんだが、あいつが来たのは最初の一回だけ。後から委任状だけ送りつけてきて全部俺に押しつけやがった」
 こめかみに血管が浮き出ている。当時の苦労が垣間見える表情だった。
「あの!」
 不意にランティスの横から同僚女性が割って入った。この殺伐とした空気の中でよく出来たものだ。興奮か緊張か、彼女の頬は上気している。
 ランティスが見下ろすと彼女は胸の前で拳を握った。
「時間がおありなら、私たちに歌の指導をして頂けませんか!?」





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あきゅろす。
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