短編集
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海とオレ(3)
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その日から、俺は海とよく喋るようになった。
それまで、学校では黴菌や虫けらのように扱われていた俺は“会話”というものに、これほど不慣れだったのかと思える程、海との会話では見事な不器用を遺憾なく発揮した。
上手く海への返事ができない。
なんと言えばいいのかわからない。
そんな風だから、俺は基本的に海の話に相槌を打つくらいしかリアクションを取る事が出来ずに居た。
もっと上手く喋りたい。
海を楽しませたいと思うのに、俺の口からはそっけない返事しか生まれない。
海と居ると楽しいし満たされるが、歯痒い思いもする。
そして、俺も毎日学校に行けるわけではない。
良くて週に3日くらいしか行ってなかった。
いや、行こうと思えば行けるのだが、父から暴力を受けた後は上手く体を動かす事ができないし、食べ物を探しに店のゴミ箱をあさったり。
ついでに言えば、俺は朝、新聞配達のアルバイトも既にこの頃にはしていた。
まぁ、やってもやっても父に金を奪われる為、あまり意味はないのだが。
けれど、気まぐれで俺の手元にも少しだけ残ったりするから、しないよりはマシなのだ。
もう、本当にヤバイって時の為に、それはとってある。
俺も子供なりに生きる為には“金”が必要である事を知っていたので、こんな風にいろいろと多忙な日々を過ごしていたのだ。
本当は学校に行けば、給食というタダ飯にもありつけるのだが、学校は学校で周りからいろいろ言われるのが嫌で、海に会うまでは特に行きたい場所ではなかったのだ。
これでも、海と出会ってから、学校へはまともに通うようになっていたほうなのだ。
海と居るのは楽しいし、俺も一人の人間なんだと思う事ができたから。
だから、俺だって毎日学校へは行きたい。
毎日、海に会いたい。
けれど、最近は俺が学校に行かない理由は、また別にあった。
俺が学校に行くと海は必ず俺のところにやってくる。
そうすると、必然的に海には他の誰もが近寄ってこない。
“べちょきん”なんて呼ばれている俺のせいで、海の交友関係まで悪くなる可能性まで出ると考えると、俺は怖くて仕方が無かったのだ。
もしかすると、海まで俺のようにいじめを受けるかもしれない。
俺は別にいい。
やり返すだけだから。
けれど、海は?
あの大人しい海が、俺のように相手を殴ったり怒ったりするなんて想像もつかない。
きっと、海は泣く。
静かに、一人で泣くのだ。
そして、いじめの原因が俺のせいだと知ったら、もうきっと俺にあの笑顔を向けてくれなくなる。
俺は海を心配しながら、結局自分の心配をしていたのだ。
海が俺から離れて行くのが怖くて。
だから、俺は海に毎日会いたいのをこられて学校へは余り行かなかった。
けれど、後に、これは俺の勘違いであった事を知る。
そして、同時に後悔もした。
それはある日の学校の帰り道の事だった。
「へいちゃん、へいちゃん。明日はがっこう来る?」
「……わからん」
「へいちゃんが居ないと、がっこうつまんないや」
学校からの帰り道、海が俺にそう言うと、俺は嬉しくて己の耳が真っ赤になるのを感じた。
海はいつもこうだ。
いつも、俺の喜ぶ言葉を言ってくれる。
欲しい言葉をくれる。
こんな海だから、きっと俺のほかにたくさんの友達が居るに違いないのに。
俺と居てくれるし、一緒に喋ってくれる。
みんな、俺を汚いもののように扱うけど、海はいつだって俺に汚いなんて言わなかったし、いつだって笑顔を向けてくれた。
いつも、いつも。
「そうだ!へいちゃん!今日もうちでごはん食べて行きなよ!一緒にお風呂もはいろ!で、テレビ見る!ね!へいちゃん!」
「うん」
「やったー!今日はね、カレーだよ!れとるとの、あっためるやつ!辛いのと甘いのとちょっと辛いの、へいちゃんどれがいい?」
「辛いと」
「へいちゃん、辛いのかぁ。大人だね。でも、よかった。ぼく、甘いのしか食べれないから」
そうやって、その日も俺は海と海の家に帰って、そして一緒に宿題をしたり、テレビを見たりした。
夜ご飯はレトルトカレーだった。
この頃の俺は、やっと海の家に行っても親が帰ってくるのでは?という心配をしなくなっていた。
もう何度も海の家でご飯を食べたり風呂に入ったりしていたが、一度も俺は海の両親を見た事がなかったのだから。
そのお陰で、俺は絶食だらけの日々を抜け出していた。
海の家の食べ物はレトルト食品や、出来あいのものばかりだったが、それらも俺にとっては絶品の料理だったし、海と食べれば何だって良かったのだ。
その日、俺はいつぶりかのカレーを食べた。
レトルトカレー。
中辛。
少しだけスパイスの利いたソレを食べながら、俺は何気なく海に向かって聞いてみた。
「海」
「なに、へいちゃん」
「オレが学校おらん時、海はなんしよる」
俺から海に話しかける事なんて稀である。
本当にそれは俺の気まぐれだったのだ。
きっと、俺が居なくても楽しくやっている、そんな海の日常を海の口から聞いて、自分の中にある妙な希望を断ち切りたかったのだ。
海には俺だけ、なんていう儚い希望を。
「んとね、一人で図書室で本読んだり、一人で学校の中探検したり、一人でおえかきしたりしてる!」
海の返事に、俺は胸の中がドクリと大きな音をたてた気がした。
一人?
海、一人ってどういうことだ。
「……オレ以外の友達とかおらんと?」
「へいちゃん以外?」
そう、俺は内心どこか焦りながら海に尋ねると、海は一瞬にして表情を強張らせた。
そして、直後に海の顔に張り付く無表情。
俺は焦った。
海のこんな顔、初めて見るからだ。
もしかしたら、俺は海に嫌われるような事を言ったのかもしれない。
きっとそうだ。
俺は人とまともに会話なんてした事がないから、きっと海を傷つけるような事を言ってしまったのだ。
「……っ海!」
俺が思わず海の名前を呼ぶと、その瞬間、海は無表情だった顔を一気に歪めた。
「っうええ…っうう」
海が泣いてしまった。
いや、俺が海を泣かせてしまったのだ。
この、俺が。
俺は海の頬をポロポロと流れる涙を見ながら、次の瞬間居ても立ってもいられず、カレーを食べていたスプーンを置き、海の隣へと移動した。
どうしたらいいだろう。
何と言えば海は俺を許してくれるだろうか。
俺は必死に考えながら海の顔を覗き込む。
少し前まで、こうやって、俺が海に至近距離まで近づく事はなかった。
長年染み付いた俺の汚さを海に移したくないと思っていたからだ。
けれど、その時はそんな事、考えている余裕はなかった。
海が俺の前で泣いているのだ。
俺のせいで。
悲しませたのだ。
「海?海?どげんした?オレ、なんか悪かこつ言った?ごめん、ごめん」
「ぅぅぅええ、へぇえちゃんっ」
俺は本格的にウエウエと涙を流す海に、俺はどうしたらいいのかさっぱりわからなかった。
こんな時ばかり、自分の会話能力の低さを恨んだ事はない。
「海、海。ごめん。ごめんな」
静かに涙を流す海を、俺は謝りながらずっと背中をさすった。
それだけしか、俺にはする事ができなかったから。
「あっちに行け」と、海が俺を拒絶するまでは、俺は海の傍を離れたくなかったのだ。
しばらくして、海の涙が止まって、まともに話せるようになった。
やっと話せるようになった海の放った第一声は、怖くて仕方が無かった俺の心を一気に暖かくするものだった。
「ぼくっ、へいちゃん以外ともだちなんか居ない」
「……っ」
俺は、海が何を言ったのか、一瞬理解できなかった。
俺は幻聴でも聞いているのだろうか。
しかし、閉口する俺に海は畳みかけるように言った。
「へいちゃん以外、居ない。ぼく、ずっと一人だ。へいちゃん居ないと、ぼく学校さみしい。つまらん。行きたくないっ」
そうして、また海は涙を流す。
そして、その海の悲痛な叫びに俺はやっと理解した。
海は俺と同じ“一人”だ、と。
「オレ、ごめん。そんな、つもりやなかった。オレの事、まわりから、なんかいろいろ言われよらんかっち思って」
「知らない。周りなんか知らない。ぼく、へいちゃんしか居ない」
海は何度もそう言った。
俺は海が泣いているのに、なのに、何故だか嬉しくて仕方が無かった。
海には俺しかいないのだ。
そうだ、俺だけなのだ。
そう思った瞬間、俺は火照る体とその衝動に、思わず海を抱きしめていた。
風呂に入っていないとか、汚いとか、臭いとか、そう言う事は一切考えられなかった。
「へいちゃん?」
「海、オレ。できるだけ、学校来るけん」
「っ!ほんとう!?へいちゃん、ほんとう?」
「うん」
俺がそう言った瞬間、俺からは見えないが海の表情が一気に明るくなるのを感じた。
海は、俺なんかいなくてもいいと思っていた。
優しいし、良い子だから、きっとたくさん友達が居るのだと。
けれど、俺は思い出した。
最初に会った時も、俺が遅れて学校に来た時も。
海はいつだって一人だった。
一人ぼっちだった。
海には絶対に言えない事だが、俺にとっては、一人ぼっちの海はとても愛しかった。
子供ながらに、俺は一人ぼっちの海を愛おしいと思ったのだ。
「へいちゃん、ごはん食べよう」
「うん」
「そして、ごはん食べたらお風呂はいろう」
「うん」
「ぼくね、水っ鉄砲練習したんだよ?へいちゃん見てね」
「うん」
そう海から声をかけられている間中、俺は海から離れなかった。
ごはん食べないとないけないと分かってはいたけれど、海の温もりが体全体を通して伝わってくるこの体制を、俺はしばらく手放したくなかったのだ。
その日から、今までが嘘のように、俺は毎日学校に行くようになった。
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