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短編集



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海とオレ(2)
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予想だにしなかった遠足は、俺にとって生まれて一番楽しい学校行事だった。

山の上に到着して、俺は周りで弁当を食べるためにビニールシートをひいて昼食の準備をする周りの奴らをぼんやり見ていた。
俺は手ぶらだ。
弁当もなければ、ビニールシートだってない。

微かに弁当の匂いか鼻を掠める。

あぁ、お腹がすいた。

本来、俺はその日空腹を少しでも満たすために学校の給食を当てにしてきたのに、これではただの体力の無駄遣いだ。
俺はどうしたものかと一人思案していると、今まで一緒に手をつないで歩いてきた海が「へいちゃん」と俺の腕を引っ張って来た。

俺は海に引っ張られるまま、海の引いたビニールの上に靴を脱いで座ると、目の前でいそいそと弁当を準備する海を見ていた。
周りが親の手作り弁当を見せ合う中、海の弁当はよくコンビニに置いてあるハンバーグがメインの弁当だった。
お茶も、ペットボトルのお茶。

何も知らない俺は、その時もお腹すいたなぁと呑気な事を思っていた。
すると、コンビニ弁当を取り出した海は弁当を開けて、何故か開けたフタの上に弁当を取り分け始めた。

ハンバーグもスパゲティもフライもごはんも。
海は一生懸命分けている。

鈍い俺はそれを何をやっているのだろうと思いながら、眺めるだけだった。
しかし、弁当を分け終え海が「へいちゃんの分」と言って俺の方に分けたもう一方の弁当を差し出して来た時は、一体何事かと思った。
しかし、一拍後、海の言っている意味を理解すると、俺は急に体中が熱くなるのを感じた。

海は笑いながら「二人で食べるとおいしいね」と、静かにモグモグとご飯を食べている。
こんな風に誰かと、こんなまともなご飯を食べるなんていつ振りだろうか。

俺はまたしても目頭が熱くなるのを感じたが、すぐに目の前にある弁当への食欲へとそれはかき消された。

俺はゴクリと唾を呑み込むと、ガツガツと一気にお弁当を食べてしまった。

そんな風に、欲を満たすように一気に弁当を食べてしまうと、そんな俺の様子を目をぱちぱちさせながら眺めていた海が笑って自分の分の弁当まで差し出してきた。
そこには、まだ殆ど手をつけられていないお弁当。
俺はさすがに「いらん」と断ったが、海は笑顔で首を振りながら「もうお腹いっぱい」と言って俺に弁当を押しつけるように渡してきた。

正直、弁当半分では、ここ数日に及ぶ絶食の空腹は収まりきれていなかったため、俺はすぐにその言葉に折れ、海の分の弁当まで一気に食べてしまった。
その間も、海は嬉しそうに俺を見ていた。

それ程にまで、海は他者との繋がりというものに飢えていたのだ。

その遠足で、俺は海とたくさん話した。
余り上手く喋れない俺だが、海は気にした風もなく楽しそうに俺に話しかけて来る。
決してうるさいわけでなく、ポツポツと紡がれる海の柔らかい話し方は、俺にとってとても心地よかった。

そんな海につられるように俺は山を降りる頃には、随分とリラックスして海と話せるようになっていた。
久しぶりにまともに他人と話した。
普段使われていない表情筋がフル活用されたせいで、顔が若干痛かった。

遠足が終わり、俺は海の自宅へと招かれた。
既に夕方だった為、海はおずおずとした様子で「おうちは大丈夫?」と尋ねてきた。

その表情で、海は本当に俺に家に来て欲しいのだとわかり、俺はなんとも心が満たされるのを感じた。
俺としては海の家こそ俺なんかを呼んで大丈夫なのかと聞きたかったが。

そんな気まずさをごまかすように、俺は「オレの家も親おらんけん」と海から目を逸らしながら言った。

俺だって海の家に行きたい。
こんな風に他人と関わり合いになるのは久しぶりで、本当に心地がいいのだ。
俺の事をちゃんと人間扱いしてくれる海は、俺にとって本当に天使みたいな存在だったのだから。

俺は久々に感じた他者への欲求に、自分でどう対応したらよいのかわからなかった。
こんな風に他人に期待すると、後で必ず後悔する。
きっと、裏切られるとわかっているのに、海の笑顔と手の温もりは、そんな俺の理性をすっかり溶かしてしまったのだ。

海の家に到着すると、俺はなんだか落ち着かない気分になった。
こんな、まともな他人の家なんていつ振りだろう。
本当に海の親は居ないのだろうか。

そんな風に俺も最初はコソコソと海の家の中を歩きまわっていたが、途中からそれにも慣れてきた。
本当に海の両親は一切帰ってくる気配を見せないのだ。
俺にも普通の家という感覚があまりわからないので、こんな風に9歳の子供を置いて夜遅くまで大人が帰って来ない、その異常さには気がつかなかった。

まぁ、そんな事を言うなら俺の家の方が断然異常なのだが。
父親なんか長い時は1カ月近く帰って来ない事もある。
俺としては父親が居ない方が、命の危険はぐっとなくなって安心ではあるのだが。

そして、それまでテレビを見て笑っていた海が何かを思い出したように「あ!」と声を上げると、その視線をテレビから俺の方へと向けてきた。
まん丸なその目が、俺の体を捉える。
そして、何の躊躇いもなく、俺の汚れた体と、その体中についた傷へと触れようとしてきた。

「へいちゃん、けが痛そうだから、しょうどくしよう?」

そう言って俺の体に触ろうとする海に、俺は顔を逸らした。

俺はこんなに汚い。
真っ白で綺麗な海の手。
その手が俺の手を何の嫌悪も躊躇いもなく触れて来てくれたのは確かに嬉しかったが、これ以上、海が俺の体に触れるのは良くないと思った。

海が俺のせいで汚れてしまう、と。

「オレ、きたなかけん、触らんほうがいい」

そう、絞り出すように言った俺に、海は伸ばしていた手を止めた。
止まった手を見て、俺はそれでいいと心の中で思った。
思いながら、だが、確かに止まってしまった手を見て傷ついている俺も居た。

なんて勝手なのだろう。
止めたのは俺なのに、それで俺が傷ついてどうするのだ。
触れて欲しいなんて、思ってはいけないのに。

俺がそんな事をごちゃごちゃと葛藤していると、それまで俺の隣に座っていた海が突然立ち上がった。
そして、そのまま無言で部屋の奥へと走り去ると、何やらバタバタと走りまわっている。
どうしたのだろう。
俺が海の行動を不審に思い、自分も立ちあがろうとした時。

海は奥の部屋から、いつものあの笑顔を携えて俺の元へ戻って来た。

「よごれは、洗えばなくなるよ」

「っ」

そう、俺が思ってもみなかった言葉を紡ぐ海は、そのまま何の躊躇いもなく俺の体に触れた。
そして、俺の手をしっかりと取り「ね?」と俺を引っ張り上げてきた。
その時、その瞬間。

俺はいつの間にか己の最下層まで陥れていた自分の尊厳を、海が一緒に引っ張り上げてくれたような気がした。
きっかけは他人の言葉や、行動だった。
けれど、最後に最も自分を馬鹿にして尊厳を傷つけていたのは、自分自身だった事に、俺は初めて気付いた。

汚い。
臭い。

でも、それは確かに洗えば落ちてしまうものだ。

「うん」

俺は俺の手を引っ張る海に、小さく頷くと、俺はそのまま海と共に風呂に入った。
俺の体の汚れは酷かった。
しばらく泡が立たない位、体も髪の毛も汚れまくっていたが、それも海が一生懸命洗ってくれた。

けれど、一番洗われたのは俺の心だった。

その日、俺は海と共に風呂に入って、共に夜ご飯を食べた。



泣きたいくらい幸せな、海との出会いの1日だった。

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