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 今日は、何だか月が大きい。いつものそれは豆粒くらいにしか見えないが、今日に限ってはバレーボール程もある。いや、バスケットボールといっても過言ではない。
 それに、なんだか寒い。さっき暖房を入れた筈なのに。あれ、本当に入れたっけ?ていうか、何か色々とおかしい。

 ふと見回すと、鬱蒼とした森の景色。手には愛用のクラシックギター。そして街の灯りは一切なし。

「うぇぇぇぇっ…!?」

 ちょっと待て、落ち着け俺。きっと寝ぼけてるんだ。まず記憶の整理から始めよう。
 まず朝、いつも通りに出勤して、いつも通り嫌味を言われつつ何となく仕事をこなして、課内の飲み会に誘われる事もなく、誰もいない寒い部屋に帰宅。で、風呂入って飯食って、ギターを手に取って…。

 で、大自然なう、と。

「いやいやいや…どう考えてもおかしいって…」

「誰かいるの!?」

 突然のその声に、俺はびくりと体を震わせた。反射的に振り向くと、人影がひとつ。暗くてよく見えないが、その声と合わせてどうやら女性だと判断できる。
 程なくして女性が一歩前に出た。その瞬間、月明かりを受けて何かがきらりと光る。それが何か分かった瞬間、俺は思わず後ずさりした。

「ちょ、ちょっと待って、落ち着いて…何か悪いことしたんなら謝りますからっ!」

「ちょっと、大きな声出さないでよ…!落ち着くのはそっちでしょ…!」

 いやいや、出会い頭にナイフ構えられて落ち着けってのが無理な話だ。心の中で思わずつっこむ。そして、少し離れた所から物音がしたのと、視界が逆転したのはほぼ同時だった。

 驚きすぎて、目の前の状況に声が出ない。というか、口を押えつけられているのでそもそも無理な話なのだが。
 どうやら物音に気を取られた瞬間に押し倒されたようだ。仰向けになった俺が下で、ナイフ女が上。無論、俺の胸の上では女の胸が押し付けられているし、顔は数センチ程の距離しかない。女と言うには少々幼い顔立ちだし、少女というにはけしからん体である。

 とりあえず落ち着こう。いや、無理なのも無駄なのも分かっている。魔法使いとなってしまうのも時間の問題であるこの俺が、こんな状況で落ち着ける筈もない。
 そんなシャイな俺が動けずにいる中、ナイフ女は俺をぶっ刺すでもなく食べちゃうでもなく、ただじっと息を殺して辺りを警戒している。どうやら俺が恐れていることも、実は密かに期待していた事も起こりそうにはなかった。

 俺はほんの少し、それこそBB弾くらいのちっぽけな程の落ち着きを取り戻し、ナイフ女をまじまじと観察した。夜なのではっきりとは分からないが、肌は透き通るように白い。目はぱっちり二重、長い睫、鼻と唇は上品にちょこっと、それらのパーツがバランスよく顔に乗っている。長く真っ直ぐな黒髪からは、何とも言えない良い香りが漂っていた。

 ヤバい、完全にタイプだ。というか、タイプじゃなかったとしても、普通に美少女だ。魔法使い見習いの俺には刺激が強すぎる。しかし俺も一端の社会人。恐らく年下であろう(しかも多分十代だ)の見知らぬ少女に手を出せばどうなるか、想像に難くない。

 そうしてしばらく自分自身との死闘を繰り広げていると、ふとナイフ少女がすっと離れた。そして辺りを見回し誰もいないのを確認すると、ふうとため息を漏らした。

「ふう…危なかった…。」

 ナイフを懐にしまいながら、少女は衣服についた汚れを払いながら立ち上がった。
 突如訪れた終戦に、俺は思わず唖然としてしまった。安心半分、残念半分の複雑な心境を隠して、上半身を起こして彼女を見上げた。真っ直ぐこちらを見つめるその瞳は、完全に怪しい人間に向けるそれだ。

「で、あなた何者?格好からして、フォーレの兵士って訳じゃなさそうだけど…そうじゃないなら、どうしてこんな場所に?」

 ん?ふぉーれ?兵士?聞いた事もない名前だったし、中肉中背でサラリーマンである俺が兵士だなんて、ある筈もない。何でこんな場所に?こっちが聞きたいくらいだ。色んな考えが頭を過ったが、日本語が通じているからきっと日本なのだろう。

「よく分からないけど…俺はただのサラリーマンだよ。何でここにいるのかは…ぶっちゃけよく分からん…」

 こんな答えでは、怪しい人物に見られても仕方ない。案の定、彼女の頭上にはいくつものクエスチョンマークが浮かんでいる。

「何だか要領を得ないけど、こんな所で話すのもなんだし…。この近くに暖の取れる所があるから、ひとまずそこへ行きましょ」

「え…いいの?」

 いやいや、よくないだろう。そんな簡単に見ず知らずの男を連れこむ気ですか。嫌でもイケナイ妄想をしてしまう。

「別に敵意があるって訳でもなさそうだし、それにいつまでもそんな格好でいたら風邪ひくわよ?」

 そう言われればそうだ。こんな寒空の下、上下ジャージだったとは。うぅ…そう思ったら途端に寒くなってきた。ここは変に深読みせず、素直に親切心に甘えるとしよう。

 そうして立ち上がろうとして中腰にまでなったところで、俺は動きをとめた。とんでもない事を思い出してしまい、不自然に腰を後ろに引っ込める。
 一人冷や汗を流す俺に気づき、歩き出そうとしていた少女が振り返った。

「…何してんの?」

「いやぁ…ちょっとね…」

 言えるかぁぁ!この体勢で察して下さい。いや、察してもらったらそれはそれで困る。かなり。
 そうして何も言えないまま、俺にとっては永遠とも呼べるほど長い数秒が過ぎた時、ふいに少女はぎくりとして、顔を真っ赤に染めた。それはもう、夜だというのにはっきりと分かる程に、真っ赤に。

「あははは…」

 何とか笑って誤魔化そうとしたその時、乾いた音がして一瞬意識が飛んだ。きっと今、俺の頬には見事に真っ赤な紅葉が映っていることだろう…。

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あきゅろす。
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