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放課後の音楽室
恋はあせらず5

 「先生ずるいよ。私に責任押し付けるなんてさ」
 「んなつもりじゃねェよ」
 「じゃあ先生はどうしたいの?」
 「俺ァ…どっちでも」

なぜか銀八は目線を逸らした。
何となくさっきまでの余裕のある銀八の様子とは違い、普段の銀八に戻っているように桜には思える。

 「いいかなって気もするし、まずいだろって気もする。お前が無理ならそれでいい」
 「私は、ちょっと怖いかも」

え? 初めてなの!?
いや、違うよな…。え!? でも怖いって、えぇ!?

平静を装おうとする心の中で銀八は盛大に叫んだ。

もし初めてなのだとしたら、こんな形でなだれ込むわけにいかねェ。
いや、初めてでなくても二人にとっては初めてで、勢いでヤッてしまうというのはやっぱり違うだろ。

でも初めてかどうかなんてわざわざ聞けるか!?
んなしょうもないこと、大人の男として小さいだろ。…器が。


 「何が怖いんだよ?」
 「自分でもよくわかんないけど…、先生が大人だからかな? 今よりもっと先生のこと好きになったら、きっと離れるのがますます辛くなると思う。そうなっちゃうことが怖いみたいな」
 「意味がわかんねェよ。付き合った途端になんで離れんの?」

けれど、すごくカワイイことを言ってるということだけは伝わってくる。

まだいいか…。焦ることもねェ。

銀八の心は決まった。

 「怖いと思ってるうちはやめとけ」

桜はホッとした中に、少しだけ残念さを残したような顔を見せた。
  向かい合うように膝の上に抱いている桜の頭を撫で、優しく微笑みかけた銀八は、そんな自分に少し照れくさくなって腕を伸ばして眼鏡を取った。
もうすっかり普段通りの銀八に戻っていて、桜も残したままだったケーキを思い出し膝から降りた。

 「続き食べよっと」
 「色気より食い気だな」
 「別にいいじゃん」

ケーキにフォークを突き刺して唇をとがらせる。

 「いいよ。それで」

まだ始まったばかりで先は長い。
今はまだこれでいい。

 「先生、次はいつ会える?」
 「そうだな……年末年始か」
 「会ってくれる?」
 「おう。三学期からは今までみたいには会えないしな」
 「寂しくなるなぁ…」

ケーキを食べ終えた桜が、フォークを置いて呟いた。

 「まぁ今までは毎日、最低でも朝と帰りは顔見れたからな」
 「先生、私のこと見ててくれてたの?」

桜は目を丸くした。
いつもさっさと教室を去って行く銀八からは、全く想像がつかない言葉だ。

 「ったりめェだろうがよ」
 「ねぇ、先生こないだ四月から私のこと見てたって言ってたでしょ?」
 「よく覚えてんな……」
 「私のこと、いつからどうなってこうなったのか教えてよ。色々とさ」

テーブル越しに上目使いでこっちを見る桜。
銀八はまた桜を隣に座らせたくなった。抱きしめて触れながら話したい、と。
だけどそれでは同じことの繰り返しになりそうなので、テーブル越しの距離で我慢する。

 「あー、授業受け持ったのは今年初めてだったけど、一年の頃から顔は覚えてたわ」
 「私のことを!?」

桜が身を乗り出した勢いで、テーブル上の皿やカップが小さく揺れた。

 「だからお前の話をしてんだろうが。…で、今年担任になって、とにかく目に入んだよ。授業中もな」
 「よく目合ってたよね?」
 「やっぱりわかってたか? まー、そんなとこだ」

先生、本当に私に気付いてくれてたんだ。

 「聞くだけ聞いといて言うことはないのかよ」
 「あー。うれしいなって思って」
 「なんか適当に聞こえるけど」

一人で笑う桜に銀八は不審な目を向けたが、嬉しそうにしている桜を見ると、「ま、いっか」と思う。

 「お前の方はどうなの。いつから?」
 「私? うーん…。よく目が合うとは思ってたけど、気のせいで片付けちゃってたからなぁ…。自覚したのはやっぱり先生が家に来てくれた日からだね」

先生が特別になったのは。
そしてあの日から、今まで当たり前に感じていた独りに耐えられなくなったんだよ?

 「先生」
 「ん?」

眼鏡の奥の優しい瞳に心臓が音を立てる。
さっき感じた不安や怖さが再び襲ってくる。

 「……」
 「どうした?」
 「……うん」

今度は銀八が、さりげなく桜の側へと移動した。
ベッドを背もたれに並んで座り、桜の手を握る。

 「言えよ」
 「……結局どうしたって不安で怖い。何でかなぁ。すごい幸せなはずなんだけど」

泣きそうな顔でそう話す桜に、銀八は笑い出した。

 「何で笑うのー!?」
 「だって普通のことじゃねェか!? そんな不安の一つもねェ、なんてことの方がや俺ァおかしいと思うね」
 「そんなもんなの?」
 「ああ。幸せな証拠だろ」

桜は半分納得していないような表情で、銀八を見つめている。
まだ何か言ってほしそうな桜を銀八は胸に抱き寄せた。

 「お前だけじゃねェんだ。これでも俺だって不安はあんだよ」
 「先生も?」
 「ああ。今、幸せだからな」
 「先生から見たら私なんかガキだから不安になることなんかなさそう」

桜の髪を手櫛で梳きながら、「んなわけあるか」と思う。
そりゃ高校生の桜からすれば自分は大人に映るのだろう。
だけどそれも今のうちだけだ。
社会に出れば、もっと大人で器の大きい男は山ほどいる。
こんな不安を桜に言えるわけがない、それも辛いところだ。

 「こういう関係になった日にゃ、ガキも大人もねェんだよ。ましてや大人だから余裕なんて、そんなわけもねェ。むしろ若いお前の方が誘惑も多いんだぞ?」

銀八は抱きしめた桜の肩越しに、気付かれないようにそっと腕時計を見る。

離れがたい。
桜といると、まるで高校生に戻ったような気持ちになる。

腕時計から目を逸らし、髪に口づけながら、

日付が変わる頃まで。
もう少しだけこのままで。

年甲斐もなくそう思った。



'10.7.23

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