放課後の音楽室
終業式2
「先生、職員室って言ったじゃん!」
職員室と言うから一階まで下りた後、今度は四階まで上がってきた桜は、あからさまに不快そうな表情を見せた。
「ごめん、悪かったな」
「書類って何ですか?」
「ま、座れよ。ちょっと時間あるか?」
「大丈夫だけど…」
何か警戒してるのか、桜は入口に一番近い椅子に浅く腰かけた。
「こないだは悪かったよ」
「こないだって?」
「前にお前がここに来た時のことだ」
「いや、だから先生、…書類は?」
「悪ィ。書類っつーのは嘘だ。とにかくお前に謝りたかったんだよ」
「……」
桜は困ったような呆れたような、でも泣いてるような笑ってるような、全く読み取れない複雑な表情を浮かべている。
「ごめんな。ひでェこと言っちまって」
「いや、そんな…先生に謝られても困るよ」
そう言って苦笑いをする桜が、夏の頃とは別人のように大人の顔に見える。
三十路を前にした自分と高校生の桜とじゃ、流れる時間のスピードが随分と違うようだった。
「俺の気が済まねェんだよ」
「そう…」
目線を逸らして頷く桜の表情は、とうてい納得してくれているようには見えない。
「まー…さ、せっかく頑張って早く内定もらえたし、なんか俺からお祝いみたいなのさせてくんねェかなって思ってんだけど」
ほんの少しでいいから、その固い表情が変わればいいと甘い期待をしていたものの、桜の表情はさっきと変わらない。
それどころか溜息混じりの呆れた声で、「先生…」と口を開いた。
「私、もう本当に同情とかいらないから」
「同情じゃねェよ」
「じゃあ、クラスのみんなが就職決まるたびに、大学受かるたびに、先生は個人的にお祝いしてくの?」
「……」
そう言われると銀八は何も答えられない。
確かにこれは特別扱いだろうから。
「半端に優しくしないでよ。私、もう大丈夫だから…」
「土方先生がいるからか?」
「……!?」
くだらないことを言ってる自分が自分で嫌になる。
だけど土方の名前を出した途端に表情が変わった桜を見ていると、どうしても止まらない。
頭とは別に口が勝手に動きだす。
「抱き合ってたらしいじゃん」
「何のこと?」
「職員会議でも話題になったんだよ。心当たりあんだろうが」
「ないよ、そんなの」
「ま、俺もこの目で見てたけどな」
「……」
さっきまでは少し不機嫌そうだった桜の表情が、次第に辛そうなものに変わっていく。
もう止めろと頭の中の冷静な部分が叫んでいるのに、今更止めようがなかった。
「内定伝えに来た日だ。あのあと帰ろうと思って外に出たらお前と土方先生がいた」
だんだん桜はしんどくなってきた。
二学期の間、銀八のことをあきらめようと何とか頑張って、今だって何もない顔で銀八の前にいるのも本当は必死だというのに。
どうして銀八はただの担任として接してくれないのか。
突き放しておきながら、酷い台詞を吐きながら、どうしてまだこんな場所に呼び出して私に干渉してくるのか。
もう我慢できなかった。
「土方先生のことは、先生が見た以上のことは何もないよ。てかさ……」
もうどうでもいい。
嫌われてもいい。
どうせフラれたんだし。もう卒業だし。
これ以上叶いもしない恋に悩まされるのは、もううんざりだ。
「坂田先生には関係なくない?」
* * *
桜が帰った資料室。
作業の手を止めた銀八は煙草を取り出そうとしたが、思い直してボールペンを手に取った。
だが、いくら集中しようとしても頭の中はすっきりとしない。
あーうるせェ。
どうせならわかる曲吹いてくれよ。
先程から続けられている吹奏楽部のパート練習にまで、ついつい八つ当たりしてしまい、銀八はやっぱり一服しようとボールペンを放り投げた。
ボールペンはコロコロと机の上を転がり、勢い余ってそのまま床に落ちた。
「くそっ!」
銀八は舌打ちをし、背もたれにもたれかかって煙草を口にする。
最初に吐き出した煙は溜息と混じった。
何のために桜を呼んだのだろう。
謝れば済むような気がしていたけれど、変わってしまった心を取り戻すのは容易なことではなかった。
卒業を前にして焦ってるのは、今じゃ自分の方。
さっきまで桜が座っていた椅子に目をやる。
『先生には関係なくない?』
『ああ。…そうだな』
『先生は罪悪感みたいなのがあるのかもしれないけど、私はもう何もないから。気にしてないし』
『……』
『面倒な生徒だったかもしれないけど、もうすぐ卒業だから…先生も忘れてよ』
くだらねェ理屈ばっかこねて桜を泣かせた罰だ。
あきらめのいい大人になってから随分と経つが、初めて思った。
季節が戻ればいいと。
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