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放課後の音楽室
ドライブ1

「あーもしもし、坂田だけど。お前今日の夜、空いてるか?……んじゃー、何か食いに行こうぜ。六時半に迎えにいくから。じゃあな」

補習の最終日に食事の約束をしてくれたものの、その後一週間なしのつぶて。
そんな銀八からの突然の誘いに、携帯を手にしたまま頭がなかなか働かない。

「一時間ちょっとしかないじゃん……」

夏休み真っ盛りの中、家でのんびりと涼んでいた桜は、時計を見て慌てて身支度を始めた。
こんな急な誘い、たまたまタイミングが良かったからいいものの、もしこっちの都合が悪ければきっと、「じゃあ、いいや」と電話を切られていたに違いない。

だって先生からすれば、その程度の約束だからね。

これ以上考えるとせっかくの約束が台なしになりそうで、考えるのを止めた。


 * * *


 「おーい、来たぞー」

約束通り六時半。ドアをノックする音と銀八の声が外から聞こえた。

 「あっ先生。ちょっと待って、もう出るから」

慌てて桜は扉の向こう側に向かって大きな声で返事する。

 「お待たせ」

数秒待って現れた桜の見慣れない私服姿に、銀八は面食らってしまった。
袖なしのシャツにデニムのパンツ。
女らしい出で立ちでもなく、よく街で見かけるような下着と間違えそうな格好でもなく、至って普通の格好だというのに。
けれど普段は制服に隠れている白い肩はむき出しで、スリムなボトムスは腰のラインがはっきりわかって落ち着かない。

 「先生?」

思わず見入ってしまった銀八は、桜に呼ばれて我に返った。

何、親父目線になってんだ、俺ァ。
別に普通の格好じゃねェか。

 「…ああ。準備できたか?」
 「うん」
 「んじゃあ、行こうぜー」

外に出ると目の前の路上に、普段は見かけない銀色の車が停めてあった。
鍵を取り出したので、すぐに銀八のものだとわかった。

 「先生、車で来たんだ」
 「何で来ると思ってたんだ?」
 「原付」

桜は無意識に周りを見回して、車に乗り込んだ。

 「ありゃ通勤用だ。それにお前、二人乗りでもするつもりだったのかよ。パクられるぞ?」
 「そっか」
 「それよか何食いたい?」

エンジンをかけるとすぐに銀八は尋ねる。

 「何でもいいよ。けど、まだあんまりお腹空いてないかも」
 「そうか。んじゃ適当に走りながら探すか」

車は当てもないまま、夕方の町を走り出した。


あれ?

しばらく走ったところで、桜は不思議な感覚を覚えた。
自転車や電車とは全く違う、車の乗り心地。

そういえば私、バス以外の車に乗ったことがないんじゃ?

そう思い当たった。
事故のせいで周囲が避けていたのもあるだろうが、事故以降は確実に車に乗っていない。
それは記憶としてはっきりしている。
だが事故以前に車に乗ったことがあるかどうかについても、全く記憶にないのだ。

事故の記憶と共に、それ以前の車の記憶もなくしているのだろうか。
桜は銀八にそのことを素直に打ち明けてみた。

 「私、車に乗ったって記憶がないかも」
 「はい!?」

銀八は意味がわからず桜の方を見る。

 「うーん。物心がついてからの記憶がないんだ。事故のことも覚えてないし」

車に乗せてしまったせいで、思い出したくないことを思い出させてしまったのだろうか。
自分の無神経さが悔やまれる銀八は、すぐに返事ができずに黙りこんだ。

 「……悪ィな。今日、車じゃねェ方が良かったか?」

少ししてボソっと謝ると桜は、

 「あっ、ううん。全然平気」

と、首を振った。

 「そうか?」

気を遣ってるというわけでもなさそうな桜の声に、銀八は内心ちょっとホッとしながら再び運転に集中する。

何も覚えてなくて良かった。
じゃなかったら、今こうして先生の隣にいるのが辛かったかもしれない。

そんなことを考えながら、気ままに車を走らせる銀八を珍しいものを見るような目で見つめている桜の視線に気付いた銀八は、

 「何?」

前を向いたまま声をかけた。

 「うん……。なんか運転できるってすごいなーって」

子供のような桜の言葉に、銀八の口元には柔らかい笑みが浮かんだ。
その表情にまるで心臓をつかまれたような気がした桜が、視線を落としたその先。

ハンドルを握る腕に浮かびあがる男っぽい筋。
肘に切り傷の痕。
男物の腕時計。

いつもは白衣に隠れて見えない小さな発見が、目に飛び込んでくる。
それら全てが恋しく思えて、胸が苦しくてたまらなくなった。

なんでこんなに苦しく思うんだろう?
きっと同情心からだろうけど、先生はいつも本当に優しくしてくれて、今だってドライブまでしてもらってる。
充分すぎるほど幸せなはずなのに。
幸せな時間が続けば続くほど、一人に戻るのがつらい。

次第に陽が暮れて、何となく黙りがちになる桜に銀八が声をかけた。

 「そろそろ腹減ってきたんじゃねェか? 食べたい物決めとけよ」
 「えー? なんだろ。パスタとか?」
 「んなもん素麺と変わんねェじゃねェか」
 「そう言われても選べないし、先生の好きなものでいいよ」

今度は銀八が困ってしまう番だ。
勢いで誘ってしまっただけで、食べたい物なんて特にはない。

 「……ファミレスとかでいいか? メニュー見てから選べよ。ファミレスならどこにでもあんだろ」

今度はファミレスを探しながら、車を走らせた。

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あきゅろす。
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