放課後の音楽室
夏休み2
「外暑いだろうなぁ。帰るのヤダなぁ」
窓の外に目を遣った桜は、机の上に突っ伏した。
「一番暑い時間帯だからなー」
「先生は他人事だからね」
煙草を取り出しながら窓際へ移動する銀八に、桜はふてくされた視線を送る。
「ああ? んなこたねェよ。生徒のことはいつも心配してるっつーの」
煙草に火をつけようと窓から顔を出したついでに、ボールを打ち合う心地良い音につられて真下のテニスコートを見下ろしてみた。
コートの中にいるのは誰だろうか、目を細めてみるが遠くてわからない。
「絶対ウソ」
「なんで信じないかねぇ?」
突っ伏したまま顔だけ銀八に向けた桜は、窓の手摺りにもたれ掛かり、外に向かって煙を吐き出している後ろ姿をそっと見つめた。
普段は白衣で隠れている背中や腰ベルトの辺りから、何となく目が離せなくなる。
学校の男子生徒の中には銀八より長身の生徒もいるし、運動部で鍛えられた身体つきの生徒もいるが、銀八の身体つきは少年達のそれとは全く違うのだ。
銀八を「先生」でなく「大人の男」と意識すると、急に銀八がとても遠い存在に思えた。
窓の外に向かって煙を吐き出す銀八と、それをぼんやり眺める桜。
会話が途絶えた二人の耳に、階下から重低音が響いてきた。
窓の外の青空には似つかわしくない、曇天の空を連想させるおどろおどろしたメロディーだ。
「この曲聞いたことある」
「へぇ。最近毎日聞こえるけど知らねェな」
「何だっけ、曲名?」
「さぁな? 俺的には腹が減る曲だけど」
「えー!? 何で?」
流れるメロディーは次第に迫力を増していく。
「いっつも腹が減ってきた頃に流れてくんの。それにアレは太鼓の音か? ドドドーンって。アレがまたすきっ腹に響くんだよ」
「あー、それはわかる」
「そろそろ腹減ってきたな」
振り返った銀八が壁の時計を見ると、時刻はもう昼を過ぎていた。
「帰ろっかな」
「おう」
「やっと明日から夏休み本番って感じ」
これで新学期までしばらく会えなくなる。
先生と会えなくなってしまう。
桜は鞄を掴んで立ち上がると、寂しさを押し殺すように殊更明るい声で笑った。
「じゃあ、先生さよなら」
「あー、桜」
銀八は何か言いそびれていたことを思い出したかのように、桜を呼び止めた。
「何?」
「夏休み、どっか連れてってやろうか?」
「えええっ?!」
思いがけない言葉に桜が想像以上の反応で驚くので、かえって照れくさくなった銀八は思わず目線を逸らしてしまう。
「いや…、一人で寂しいんじゃねーかって。それに素麺ばっか食ってるっつってただろ? 育ち盛りなんだしマシなモン食わしてやろうかと思ってな」
まるで言い訳してるように早口で言ったあと、何事もないような顔でまた煙草を口にくわえた。
「本当に?」
確認する桜の声が上擦っている。
「大体家にいるだろ? 電話してから迎えに行くわ」
「……」
「何、どした?」
「ううん…。楽しみだなぁって」
「ああ。じゃあ今日は気ィつけて帰れな。ぶっ倒れねーように日陰通れな」
「うん。じゃあ先生またね」
遠ざかる足音に耳をそっとすませながら桜の笑顔を思い出し、その笑顔にまた満たされている。
男なら誰だって好きな女の笑顔が見たいだろう。
桜が生徒でなければ何の問題もないが、今は半端な気持ちで桜をその気にさせちゃならない。
俺に覚悟がないのなら。
亡くしてしまった両親に囲まれた幸せな家庭を取り戻すことはできないが、せめて桜が普通の女子校生のように笑っていられたら。
せめて自分の前でだけでも、心の底から笑ってくれたら。
そう願う思いが、単なる同情心だけでないから始末が悪い。
それは自分でも自覚があった。
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