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水底に灯る火
B
 デミトリに謝るメリットは無い。今、それが急務ではないのだ。そんなものに気をとられるよりは、もっと別のことに手をつけたほうがいい。デミトリに寂しい思いをさせたこと、知らず知らずの内に他人行儀な態度を取っていたこと、都合のいいものだけ見せていたこと、それらすべては過去の失敗だ。訂正できるものではない。一つ一つ、項目を挙げてデミトリに謝って、それで何になるのだろう。流れた年月が長すぎる。
 グレビスの屋敷に滞在しているとき、デミトリの言葉を聞いて、どうにか謝罪できないかと、すれ違ったものを修復できないかと慌てたのは事実だ。
 環境が違ったから、アウディは取り乱していただけなのだろう。王宮に戻った途端、瑣末な問題に過ぎない気がした。アウディもデミトリも、何を考え、何を感じているのかというのは重要ではない。なぜなら、王の子供だから。王の子供は政治の道具として――。
『僕は道具じゃない! 兄様みたいに全部我慢して、諦めて、黙って言う事を聞くなんて嫌だ!』
 耳の奥でデミトリの言葉が甦った。ドクンとアウディの心臓が跳ねる。
「違う、違う。それは違う、デミトリ!」
 とっさにアウディは叫んでいた。自分が何を口走ったのかわからなくなり口元を抑える。控えめなノックの音がしてカルデが様子を聞いてきたが、何もないと答えるだけで精一杯だ。
 ひどく心の中が荒立っている、そして先ほどのことが自分の思考すらも言葉として口から流れ出ていたらと恐ろしくなった。
 周囲を警戒しなければいけなかった『生前』とは違う。もうアウディが何を話そうと、それは存在しない人間の言葉なのだから何の意味も持たない。けれども恐ろしかった。言葉という形になったものがアウディの中の目を背けていたものを暴きそうで。
 喉が渇いたのでカルデを呼んで水差しを持ってきてもらう。その間もアウディは叫んだり頭を掻き毟りたい衝動を抑えていた。
 心の中で何度も叫ぶ。違う、違う、違う――と。
 冷たい水を流し込むと、アウディは上着を脱ぎ捨てた。水を飲んでも喉の奥が詰まっていて、胸のあたりがムカムカする。その位置は心臓や肺より下、胃の上のあたりで嫌な空気が固まっているような感覚だった。
 何かを吐き出したいのに、何もでない。頭の中で回るのは『違う』という言葉だ。
 王の子供であるというのは、何なのか。道具であるなら、情も心も不要だ。それでは人間である必要はない。人間というものを捨てれば優良な道具として生き長らえられたのだろう。そうすれば現在のような状況は訪れなかったし、デミトリも安全だった。
何の才能もなく、貴族社会で生きていく処世術すら身に付けていない、ただのでくの坊のアウディに、唯一価値を置くとすれば血という一点だけ。血は使いようによってはアウディの武器にもなりえたろう。そうなる前に摘み取られた。
 しかし剣を振るったことのないものが、肉を切ることなどできはしまい。肉と骨と守られた人間を鉄の塊で殺すことなど難しい。それと同じだ。王の血などアウディには使い方のわからない道具と同じだ。

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