転生少年-1
黒の象徴
地下水路の単調な景色に、飽き飽きしてきた頃、ようやく、カヌーは、地下水路の迷路を抜け出した。そうして見えた新天地は潟湖。曇り空と、深い霧が立ち込めているお陰で、地平線はぼやけていたが、立ち込める潮の薫りが、この湖の海水を主張する。鉛色の恵みが、カヌーを乗せて穏やかに揺れた。
「晴れてたら良かったのに」
デニスは誰にともなくぽつりと呟いた。Laviは、カヌーの長椅子を一つ占領し、長い手足を投げ出して、豪快に寝こけていた。亜廉も、長椅子の背もたれに寄り掛かり、俯いている。長めの白髪に隠れて、顔は見えないが、身動きの一つも取らないので、恐らく彼も眠っているのだろう。
黙々と櫂を動かしていた、白いコートの男が、ふと、デニスを瞥見した。
「この場所は滅多に晴れませんよ」
デニスの呟きに答えた男の声は、その容姿に相応しい、渋いバスだった。デニスは驚いて男を見遣った。男が喋るとは思っていなかった。
「一年中、霧のかかった地域なんです」
「どうして?」
「さあ? そういう気候なんでしょう」
男は、微かな笑い声を交えて答えた。
「貴方は、ここに詳しいの?」
「詳しいって訳じゃ。もう何度も、同じ水路を、航海してきましたから」
「何度もここに来たんだ?」
「はい」
「じゃあ、一度くらいなら、晴れた日の、この潟湖に来たことはある?」
男は微笑んだ。その笑顔の横顔が、何か懐かしいものに似ているように思えた。
「一度だけなら、あります。けれど、あれは、何かの奇跡だったと思っています。きっと運が良かった。綺麗でしたよ。とても綺麗でした。あんまり綺麗すぎて、信じられなかった。私も含め、皆、本当にこれが、あの陰欝な湖なのかと。天変地異の前触れだなんて、笑い飛ばして、ごまかしたけれど、内心、感動で胸が一杯でした」
男は、夢見るような、うっとりとした口調で語る。デニスは、その語りに頷きながら、この霧と、重い雲の向こうに、輝いているはずの、母なる恒星を思い浮かべた。
「それにしても、いつ到着するの? その、ジパニーズタウンだっけ、そこには」
「まだ、しばらく掛かります。寝ていた方が良いですよ。いつどこで、体力を消耗するか、分かりませんから。他のお二人のエクソシスト様は、それを考慮して、仮眠を取っておられるでしょう」
「エクソシスト様?」
デニスは眉を寄せた。先刻、寝入ってしまう前のLaviと亜廉から教わった知識を思い出す。エクソシストは、イノセンスの適合者。神に選ばれし者。悪魔を破壊することのできる者。亜廉やLaviもそれであり、亜廉から、エクソシストの証であるコートを借り、着ているデニスも、今はその一人なのだ。
「何故、敬称を使うの? 僕も、Laviも亜廉も、あなたよりずっと年下でしょう」
「年齢は関係ありません。エクソシスト様は、神に遣わされた方々なんですから」
男は、与えられた台詞を読み上げるように答えた。
「神に選ばれ、悪魔を討伐する力を授かったのは、貴方がたエクソシスト様だけです」
エクソシストの役割も、悪魔という殺人兵器のことも、Laviと亜廉から教わった。だが、それも未だ、感覚としての実感ではなく、単なる知識に過ぎない。デニスには何も分からない。しかし。
「そんな、神格化するほどのこと? あなたと同じ人間なのに」
「人間?」
男が、あからさまに嘲笑した。
「人間にはイノセンスなんて操れな……」
途端、男は口をつぐんだ。同時に、息を呑む音が聞こえた。その瞬間、デニスの背筋に、痺れが走った。悪寒だった。
「申し訳ございません、エクソシスト様。失言でした。ご無礼をどうかお許し下さい」
デニスが、何も言えずに居ると、男もそれ以上、何も言わなかった。だが、男が飲み込んだ言葉を察することは、たやすかった。
神に選ばれしエクソシスト。
その語感の良いフレーズを、呟くともなく呟いた。
どの世界も同じか。
デニスは、心底、落胆していた。人間の救えなさを思い知っていた。どうやら、時代が変わろうが、世界が変わろうが、人間は、変わらないようだ。ここに、不変なる虚しさがある。
潮の薫りが鼻孔をくすぐる。ボートは、万遍なく揺れていた。男の言う通り、少し眠ろうか? これから向かう場所は、尖ったカヌーの先端は、見知らない土地なのだ。
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