転生少年-1
少年
少年は、無言で、二人の男の後を歩いた。長い階段を、一段ずつ降りる度、徐々に明かりは絶えて行く。階段は、暗く、底知れない穴に向かって、伸びていた。フットライトとしての白熱灯の明かりが、三人の影を、長く伸ばし、壁に浮かび上がらせている。それは、間違いなく自分の影なのに、何処かおどろおどろしげで、少年は、背筋の寒さをごまかすように、身をよじった。
白髪の男は亜廉と名乗った。Laviは、部屋を出る際、亜廉に、少年にコートを貸してくれるよう頼んだ。
「コート? 教団のコートをですか?」
亜廉の眉間の凹凸が激しくなった。
「そうさ。エクソシストのコートさ。予備をこいつに着せてくれ。俺も予備はあるんだが、多分こいつにはでかすぎる」
「なぜコートを?」
「こいつの身分を、ファインダーにまで説明することは出来ない。新しいエクソシストだということにしておきたいんだ。団服を着てれば、誰も疑わないだろ」
亜廉は少年を瞥見した。そして、不満そうな表情を隠そうともせずに、「分かりました」とぶっきらぼうに言った。
かくして少年は、亜廉の予備のコートを着ていた。それは誂えたように体に合った。Laviによれば、このコートは『エクソシスト』なるものの証であるそうだ。
「戦闘用に作ってあるから、かなり丈夫さ。お前の身を守ってくれるだろう」
鬱屈とした長い階段を、二人の背中と、足元を、交互に見ながら歩く。やがて、水音が聞こえてきたかと思うと、急に視界が開けた。たどり着いた先は地下水路だった。コンクリートの足場が、水流を遮るように建設され、その四辺を低い柵が縁取っていた。柵は、三人が降りて来た階段の、向かい側の辺の、半ば辺りで途切れ、そのすぐ傍には、木製の杭が、コンクリートに突き刺さっていた。杭はの高さは、人の腰ほどで、碇を巻き付けていた。そこは停船場だった。
碇の鎖は、そこに停船していたカヌーの底に伸びていた。十人は入るかという、大きなカヌーだった。最前列は一人席で、白いコートを着込んだ男が、櫂を手に、座り込んでいた。男は、亜廉とLaviより随分年上に見えたが、二人と目が合うと、丁寧に会釈をした。組織には、年齢に関係しない上下関係があるのだろうか。亜廉とLaviが、颯爽とカヌーに乗り込んでしまったので、少年も遠慮がちに、後に続いた。
階段から別の男が現れた。こちらの男は、警備員のようなかっちりとした制服を着ていた。
白いコートの男が、その制服の男に目配せをした。制服の男は、目配せを受け取ると、杭から碇を外した。鎖の、小気味よい金属音が、殺風景な地下水路の壁に響いた。
白いコートの男が、櫂を動かし、ボートを発進させた。制服の男は、無表情のまま直立し、此方に敬礼を掲げていた。
一連の動作は、誰も一言も発することなく行われた。ゆっくりと、陸地が遠退いていく。少年の脳裏を、妙な失望感が掠めた。その後、初めて口を開いたのは、亜廉だった。
「それで?」
亜廉は、少年とLaviを交互に見据えた。少年は更に身を縮め、亜廉の視線のむしろに耐えた。Laviが横目で少年を見遣り、ため息を交えて言った。
「そんなに睨んでやるな、亜廉。怖がってるだろ」
「僕だって怖いですよ。さあ、説明して下さい」
「渡人だって言っただろ」
「何なんですかそれは?」
「簡単に言うなら」
Laviは人差し指を立てた。
「世界と世界を跨ぐ存在さ。ゴーウォーカーとも呼ぶ。異世界人だ」
「異世界人?」
「こいつが元々住んでいただろう世界は、恐らく、俺らのこの世界とは違う。それは過去かも知れないし、未来かも知れないし、或いは全く違う世界かも知れない。パラレル・ワールドって知ってるか? その一つ一つの在り方も、数も、計り知れない」
「よく分からないんですが」
「俺らは、娯楽としてファンタジーを読むだろ。その世界が実在しないことを大前提に。けれど、実際のところ、本当に実在しないとは言い切れないんだ。もしかしたら在るかも知れない。ファンタジーの世界観、そのままの世界が。この世界とは、世界観も概念も違った世界が。実際、こいつにとっては」
Laviは少年の頭に、ポンと手を乗せた。
「この世界は、ファンタジーに見えるかもな。お前の世界はどんな世界だ、渡人?」
少年はLaviを瞥見し、自分の『世界』を思い浮かべた。少年の世界には、知っている限り、こんな地下水路は無い。こんなコートも無い。Laviの言っていた、世界の崩壊を望む一派なるものもいない。あえて言うなら、テロリズムがそれに近いか。けれど彼らが望むものは、世界の崩壊というよりは、母国の革命だ。
「そうだね、ここよりは少し未来かも知れない。キリストが生まれてから、二千年以上経っている。大量生産、大量消費の時代だ。Laviの言う通り、僕にとって、貴方がたはファンタジーだ」
亜廉が、何かを思索するように、顎に手を添え、俯いた。少年もまた、Laviの説明を反芻しながら、思索を巡らした。
世界と世界を跨ぐ存在。
遥か遠くの国の、お伽話のように思えた。それこそファンタジーではないか。少年は、自分の体が、地に足が付かず、ふわふわと浮いているように感じた。
「その異世界人が、どうしてここに?」
「渡人がこの世界に来たからには、この世界のどこかに、渡人の力を必要としている人間がいるはずなんさ。恐らくは、その人間は、この先俺に関わってくる人物、或いは、既に関わっている人物なんだろう。送り先が俺だったんだから。けれど、それがどこの誰なのかは」
Laviは、横目で少年を瞥見した。少年は何も答えられない。少年について、少年自身より、むしろLaviの方が詳しい。所在なげに肩を竦めると、Laviが小さくため息をついた。理不尽だ。鳩尾に、生温い憤りを覚えた。
「分からないよ、僕にだって。仕方ないじゃないか、時間が無いからって、ろくな説明も受けずに来たんだ。この世界に来て、Laviが言うことを聞いて、初めて、僕が渡人という人間なんだってことを知った。その程度なんだ。分からないんだよ、僕が一番、分かってないんだ。本当に、何が何だか……」
そこまで一気にまくし立て、ふと、口をつぐんだ。
自分は、Laviの部屋の本を積み上げた。
どうして、そんなことが出来たのか。どうして、そんなことをしようと思ったのか。出来る気がした。それだけだった。出来る気がした。だからやってみよう。そして出来た。出来てしまった。
何故、出来る気がした? それは直感だった。
「……でも、一つだけ、救いがある」
それが運命とも言うべき、押し付けがましい感性ならば、この先の進路を迷う必要が、何処にある?
「多分だけれど、僕には、直感が備わった」
「直感?」
亜廉が聞き返した。
「直感としか言いようが無いから、そう言わせてもらうけれど。僕をこの世界に送り込んだ人物は……いや、あれは、果たして人物だったのかどうか、分からないけれど……言ったんだ。僕の使命は、向こうからやって来ると」
少年は、日記とのやり取りを、一つ一つ思い出しながら、その真意を考えていた。あの時は、日記の言葉に戸惑うばかりで、それが何を意味するのかなど考えなかった。だが、今になって、あの奇妙なやり取りの中に、ヒントが隠されていたのではと思う。あの日記は何と言った?
――送り主はあたし。送り先はあなたの知らない世界の人たち。あなたはそこで、いろんなことを知って、いろんな人と出会うのよ――
――あなたの使命は向こうからやってくる。心配しなくて良いわ。あなたは使命に対峙した瞬間に、それを遂げずにはいられなくなるの――
――大丈夫よ、全てあたしに任せて――
「もしかしたら、僕は」
少年は、碧眼を、徐に見開いていった。
「この世界で、何をどうするべきなのか、始めから定められているんじゃないだろうか。僕の意思に関係無く、それは向こうから、僕の前に現れる。僕は、恐らく、その通りに、それを実行するんだろう」
Laviと亜廉の顔つきが、徐々に神妙なものになっていく。
「お前がすべきこととは何さ?」
「だから、それは分からない。けれどその時、頼りになるのは、僕の直感だ。Laviの部屋の本を片付けたみたいに」
「本?」
亜廉がちらりとLaviを見遣ると、Laviは肩を竦めた。
「随分綺麗になってたと思わなかったか? こいつがやったんさ。手を使わずに、もちろんイノセンスも無しで」
「そんな、どういう」
「きっと、」
少年は、半ば自分に言い聞かせるように、語り続けた。
「きっとそういうことなんだ。僕は、僕がすべき事柄に対面した時、それをせずにはいられない。その為の直感と、能力が与えられた。僕には、それを拒否する権利も力も無い」
「お前の上には誰か、何かがいるのか?」
「多分、いる」
先刻から感じていた、腑に落ちない感情、それも、自分の体なのに、自分のものではないような、この妙な感覚は、そのせいかも知れなかった。少年の『上』に居るものが、果たしてあの日記なのかどうかは分からない。
そう、分からないことが多過ぎるんだ。けれど、僕はもしかしたら、わざと『分からないまま』、送られたのかも知れない。
「俺の部屋を片付けることは、お前の『すべき事柄』だったのか?」
苦笑するLaviの隣で、亜廉が低く呻いた。その苦そうな表情から、理解しようという努力が読み取れた。
「そう、ですか。そうなんですね。そういう人もいるんだ。それで、君はLaviから離れられないんですか?」
「離れたらどうなるのかは、これも、分からないけど、離れられないんだと思う……というか、離れない方が良い気がする」
「さっきも言った通り、」
Laviが口を挟んだ。
「送り先が俺だったということは、渡人の力を必要としている人物は、俺に関係する人物なんだろう。それがお前の『すべき事柄』なんじゃないか、渡人?」
「そうだと思う」
少年が頷くと、Laviも、納得したように頷いた。亜廉はまだ腑に落ちない様子だったが、中途で思索を放棄したようだった。少年としては、そうしてくれた方が有り難かった。これ以上何を聞かれても答えられない。直感以外には、これを証明する術が無い。
「分かりました。とりあえず納得しておきます。それで、君の名前は?」
少年の蟀谷が、ピクリと痙攣した。少年は、自分の名を知らない。
「それは言えない」
「でも、少なくともこの任務中は、一緒に居なくちゃならないんですから」
「Laviも同じことを言った。けれど言えないんだ。言っちゃいけない。だから好きに呼んで良い。渡人でもゴーウォーカーでも」
Laviと亜廉が、互いに顔を見合わせた。
「後者は、僕の名前に似てるんですよ。少しだけね」
亜廉が苦笑を浮かべた。笑顔は、少年より幼く見えた。ここに来て初めて、亜廉の眉間の皴が取れたことに、少年は安堵した。
「では、何か名前を付けましょうか」
Laviが満足げに頷いた。少年は、若干気恥ずかしく、亜廉から視線を背けた。
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