転生少年-1
赤毛の男
青年とも少年とも呼べる風体の男だった。肩につくかつかないかくらいの長さの髪は、燃えるように真っ赤だった。左側の、顔に掛かる分だけが長い。それで左目を隠している。少年と視線が合った瞬間に、片目の男は、人懐こく笑った。
「そろそろ来る頃だろうと思って、待ってたんさ」
少年は身を縮め、目の前の男をねめつけた。だが男は平然と笑っている。見渡す限り灰色の、彩りの悪い部屋に、男の赤い髪が、場違いのように映えていた。
「貴方は誰?」
「初めまして。俺、Laviっていうんさ。よろしく」
Laviと名乗った男は、笑んだまま右手を差し出した。少年はじっとその手を見詰めた。そんな風に握手を求められても届かない。少年の腕はそこまで長くない。手の届く距離まで行こうにも、地面は歩けたものではない。少年は、本に覆われた床の上に、ぐるりと視線を巡らした。
「あの……」
「ん?」
「ここは貴方の部屋?」
「そうさ」
少年は、心許ない床に、何とか踏み止まり、Laviをねめつけた。
「とりあえず、部屋を片付けて貰えませんか。これじゃあ何をしようにも身動きがとれない」
Laviは、右目をぱちくりとしばたたかせた。本当は両目を瞬いたのかも知れないが、左目の方は赤毛に隠れて分からない。男のエメラルドグリーンの瞳の中で、少年の姿が戸惑ったように揺らめいた。
少年の提案の意味を、Laviは理解できなかったようだ。少年は、無残な姿の、無数の本を一瞥し、左手を伸ばした。薄暗い部屋の、心許ない明かりが、少年の白い掌をぼんやりと照らした。
出来る。何かは知らないけれど、出来る気がする。少年は、たちまち自負心に満ち溢れた。全く根拠の無い自身。果たして何の自身なのか。分からない。けれど出来る。自分には出来る。出来ない筈が無い。
天涯に向けた掌を見つめる。そうして、徐に小指を折り曲げた。自然と薬指が折れる。続けて中指を折った。親指を折り、中指と薬指を覆う。最後に、殊更慎重に、残った人差し指を折った。
少年は瞬きをする。これ以上なく、優雅で低速な瞬きだった。世界を断ち切るように双眸を伏せ、数秒を数える。一、二、三……割り開くように開いた。
目の前には綺麗な床が広がっていた。
「……凄え!」
Laviが感嘆の声をあげた。少年は肩が力んでいたのに気づき、息をつくと同時に力を落とした。石造りの床はやはり灰色だったが、壁との接続まで見てとれる通り、すっきりと片付けられた。散乱していた本は、ステンドグラスの窓の前に、壁を為して積み重ねられていた。皆、きっちりとページを閉じ、大人しく眠っている。少年は本を片付けてしまった。手を使わずに。呆然と左手を見つめた。紛れも無く自分の手だった。
「凄え、凄えさお前! それ一体どうやったんだ?」
「え? わ、分からない……何だか無性に出来るような気がしたんだ」
「それはイノセンスの力とは違うんだろ? そんな能力のエクソシストはいないもんな。流石は『渡人』ってとこか」
「え?」
幼子のように燥ぎながら、早口にまくし立てるLaviに、少年は小首を傾げた。耳慣れない言葉が山ほど出て来た気がする。
「お前みたいな奴のことを、渡人と呼ぶんだろ? パンダジジイが言ってたさ。違うのか?」
Laviは微かに、訝しげな表情を見せた。少年はまたしてもうろたえる。
「ぼ、僕には、何が何だか」
「現に、俺は今、渡人としてのお前の能力を見た。つまりそういうことだろ?」
「どういうこと?」
「お前が渡人だってこと」
少年は眉根を寄せた。つまり、自分は『渡人』という人間なのか? あの日記の口ぶりから、ここがいわゆる『異世界』であるらしいことは予想していた。しかしそれ以外のことは何一つ知らない。
「俺は二百年ぶりに、渡人が現れるってことを聞いて、楽しみにしてたんさ。お前は伝承通りだ」
「伝承?」
「純血のヨーロピアンでなければ、渡人の資格は無いと聞く。お前の髪と目が証拠だ」
少年はふと、日記の言葉を思い出た。――あたしの理想にピッタリの――あの部屋にあった、赤いワンピースの人形もまた、自分と同じ、金の髪に、青い瞳ではなかったか。
「お前、名前は何て言うんさ?」
Laviは押し黙った少年を気にする風でも無く、陽気に問う。
「名前?」
少年は、弾かれたように頭を上げた。男の緑色の視線と絡まった。頬の筋肉が、凝り固まったように動かなくなった。
僕の名前?
少年は、Laviに問われて初めて、名前というものを意識した。自分に、名前というものがあるとは思っていなかった。
「……どうした?」
少年の表情の変化に気付いたか、Laviが顔を覗き込む。少年は、Laviの顔を目の前にし、心に立った波を、掻き乱される心地がした。
僕に名前なんてものがあったのか?
それは、あの日記の部屋で、初めて声を出した時の感覚に似ていた。
「な、名前は……言えない」
「言えない? なぜ」
「そういうものなんだ」
少年はそうとしか答られなかった。Laviは特に気にする風でもなく頷いた。
「そうか、成程、そういうものなんだな。でも呼び名が無いと不便さ。お前がどのくらいここに居るかは分からないが、長くなれば長くなるほど」
「それは僕にだって分からない。何とでも呼んでくれて構わないよ」
「そうだな、じゃあ」
Laviは天井を仰ぎ、何か考えを巡らしていたようだった。やがて思い付いたように少年の方に向き直った。
「渡人だから、ワタジン」
「え?」
少年は耳を疑った。
「不満か? じゃあ金髪だからパッキンとか」
少年は思い切り眉間を狭めた。それは果たして、名前のつもりなのか? Laviは少年の訝しげな心地を察すると、肩を竦めた。
「俺には荷が重いみたいだ」
少年は俯きかけていた顔を上げた。すると、ステンドグラスに、少年の顔が映り込んだ。彩られたガラスの上では、少年の、髪や瞳の色など、分からなかった。
「ここは何と言う場所なの?」
Laviが我に返ったように、頭を上げた。
「そんなことも知らずに来たのか、渡人?」
Laviは呆れたように少年を見据えた。その視線責められているように感じ、少年は視線を逸らす。
仕方ないじゃないか。
少年にさえ、何が何だか分からないのだ。分からないまま日記に『送り』付けれた。日記に、いくら説明を求めても、時間が無いとしか言わなかった。
「ここは教団さ。黒の教団っていう組織の本部。この部屋は、その中の俺の自室さ。このベッドの上段だけは、ジジイのスペースだけどな」
「お祖父様がいるの?」
「血は繋がってないぜ。ジジイは俺の仕事の師匠で、俺はまだ見習いなんさ。教団の仕事とは、また別の仕事なんだが」
「そう。その組織にはどれくらいの人がいるの?」
「途方もない数さ。組織自体もでかいもんだが、上に管理している人間がいて、その上各地に支部まであるから、気の遠くなる程の人間が居る」
「何をする組織なの?」
「短く言うなら、世界の崩壊を望む一派と、その動きを、阻止する組織」
少年は何度か首を傾げた。どうやら、この『異世界』は、少年の元いた世界とは違うようだ。世界観やら概念やら、そういうものが。少年の怪訝そうな顔を見、Laviは、また肩を竦めた。
「百聞は一見に如かずさ。細々と説明するより、体感した方が早いだろ。もうすぐ迎えが来る筈さ」
「迎え?」
「任務があるんさ。教団における、俺の仕事が。俺はこれから、その仕事の為に出向かなきゃならない」
「僕も行くの?」
「そうなんじゃないか? 送り先が俺だったんだから、とりあえずお前は、俺から離れる訳には」
と、その時、部屋のドアがノックされた。
少年は飛びのくように、背後を振り返った。背後には開き戸があった。この部屋にドアがあったことを、それまで知らなかった。Laviは言葉半ばのまま「来たぜ」と呟き、ドアを見据えた。少年もまた、身を硬めてドアを睨んだ。
「Lavi? 入りますよ。もう出発の時間ですけど、準備は……」
外から、ドアを開けたのは、白髪の男だった。白髪であるのに、その風貌からは、少年との歳の差は、そう大きく見られない。同い年か、一つ二つ上か。男は、開きかけたドアを止め、少年を見て驚愕した。
「誰だ!」
途端、男は、鋭い声で叫んだ。その穏やかそうな容姿からは、想像もつかないような、凄みのある威嚇だった。少年はびくりと肩を震わした。
「左手を構えるなよ、亜廉。敵じゃない」
Laviが、厭味なほど、落ち着き払って言った。
「Lavi、誰ですかこの子は?」
「渡人さ」
「渡人?」
「説明は、長くなるから、後でする。任務にはこいつも連れて行く」
「そんな。込偉さんは」
「込偉ならこいつを知ってる筈さ。こいつは俺から離れられないんだ。俺もこいつから離れられない」
少年は、白髪の男の威嚇に怯んでから、立ち直れず、喋ることもままならなかった。口をぱくぱくと開閉させながら、二人のやり取りの中心に、佇んでいた。白髪の男は、あからさまな不審感を、少年にむきだしにした。少年は、たじろぐだけの自分に気付き、ぎりと歯噛みした。途端、全てをLaviに代弁させていることが、無性に情けなく思えた。なけなしの勇気を振り絞り、男の正面を向いた。
「あの、僕を、連れて行って下さい。決して怪しい者じゃなくて……と言っても、やっぱり怪しく見えるかも知れないけれど……本当は、僕にも、何が何だか分からないんだ。でも、どうやら、この人に着いて行かなくちゃいけないみたいなんだ。分からないけれど、それだけは分かるんだ。貴方がた仕事の足手まといにはならないから。お願いします」
男の顔から、不審感が、僅かに和らいだのが見てとれた。右隣でLaviが頷いた。男は、戸惑ったように、Laviと少年を交互に見遣り、しばらくしてから、観念したように目を伏せた。
「……ちゃんと説明して下さいね」
Laviが頷いたので、少年もそれに合わせた。男はもう一度だけ、少年の風体を眺めてから、「行きましょう」と低く言い、踵を返した。
Laviは、ベッドの脇に引っ掛けていた、黒いコートを取り、慣れたように羽織った。少年は、白髪の男が着ているコートと、Laviが着たコートを見比べた。二つはよく似ていた。
「そうだ、亜廉」
Laviは先を行こうとした男を引き止めた。
「ちょっと頼みたいことがある、こいつについて」
男が眉根を寄せ、少年を見遣った。少年に取っては、肩身の狭い視線だった。ぎゅっと身を堅め、小さな身体を、更に小さく縮めた。
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