きみのためなら死ねる。
4
暗くて、無音で、――少し怖い。外の明かりで辛うじて室内の様子を見ることができた。入るとすぐにキッチンだった。
なんだろう、ムワリと独特のにおいがする。
「あの…、…すみませーん」
控えめに声を出してみたけれど、怖さが増すだけだった。やっぱり誰もいないのかもしれない。留守だとしたらかなり不用心だ。それにしてもなんだろうかこの匂いは。妙な異臭に思わず顔をしかめながらも入口から顔を突っ込み、鼻をすんすんやる。
「ん……?」
異臭には違いないのだけど、どこかで嗅いだ事のある匂いだった。例えるなら、縁日の出店の裏の方の匂い…いや、それとも少し違う…。
あぁ、思い出した。匂いが濃すぎて判別が難しかったけれど、これはガスの匂いだ。
理解して、サァっと血の気が引いた。
“他人の家”“不法侵入”そんな単語が一瞬頭を過ぎった。でも、もしかしたら中に桂木がいるかもしれないという事にハッとすると、そういった難しいことが頭からすっ飛んだ。ドアを勢いよく開いて、乱雑に靴を脱ぎ捨てる。とにかく、この異臭の元を断たないと、大変なことになる。いや、もうなっている。
「はぁ…! どこ…!? 元栓どこ!? …っは、桂木! 桂木―!?」
叫んでみても反応が無い。
まさかもう死んでいるんじゃ、という恐ろしい推測が湧いて、無意識に悲鳴を上げた。俺は何度も何度も「どうしよう」と呟きながら、キッチンを手当たり次第かき回した。もう自分でもどこを探せばいいのかわからない。思考回路はぐちゃぐちゃだ。食器や洗剤がけたたましい音を響かせながら床に落ちる。でも、今はそれどころじゃない。
ひどい匂いだ。ほんの数分しかここにいない筈なのに、あまりの気持ち悪さに吐いてしまいそうだ。元栓が見つからないままいくらか時間が経って、ある程度気持ちが落ち着いてきた
。
ガス漏れを起こした場合どうすればいいか、いつだったか家庭科で習った気がする。こんなことなら先生の話をまじめに聞いておくんだった。とにかく、元栓を閉めて窓を開ける。それしかない。
「あった…!」
ガスコンロの裏にあったのだろう元栓を、明かりがないままなんとか閉めた。次は窓だ。割れた食器の上を駆け、ゼーゼー言いながらカーテンをジャッと乱暴に開いて、窓という窓を開けた。網戸さえ空気を隔てているような気がしたから、もう全部取っ払った。外から澄んだ風が入ってきて、俺の髪が靡いた。月明かりが室内に滲んできて、部屋がいくらか明るくなる。全開にした窓からはここよりも少し大きいアパートも見えた。あっちのアパートにはちゃんと通路に蛍光灯がつけられているみたいで、かなり明るい。
「はぁっ、…あ、…電気」
そこで初めて部屋の電気を着けていないことに気がついた。そうとう頭が参ってるな。なかなか元栓がみつからない訳だ。壁を触りながら手探りで電気のスイッチを着けると、奥の和室に盛り上がった布団をみつけた。頭を俺の方に向けてぐったりと横たわっている。顔は血の気が引いていて青白い、まるで人形みたいだった。人形みたいなその顔は、間違いなく、桂木だった。
「桂木…? え、なに、うそ。ちょっと、桂木! おい、桂木――!?」
崩れるように桂木の前にしゃがみこんだ。駄目だ。呼んでも呼んでも起きない。桂木の頬を軽く叩いてみる。よかった、温かい。でも起きない。じゃあ、どうしよう。じ、人工呼吸? いや、心臓マッサージ? やり方なんて分からない。どうすればいいか分からない。
「桂木! おい、桂木! 起きろよっ、目を開けろ!!」
半狂乱になりながら、そうやって名前を呼んだ。頬を叩いた。息をしているか確かめた。その間も、何度も何度も名前を呼んだ。
呼びかけ続けて声が掠れてきた頃、俺の腕の中で桂木の瞼がうっすらと開いた。奇跡の瞬間みたいだった。
「か、か、桂木…! 桂木!! だ、大丈夫か!? かつ、桂木…!」
うっすらとだけれど、確かに目を開けている。瞬きをした。
「よかった! よ、よかったあ…!!」
ホッとしたはずなのにさっきより体が震える。
感極まって桂木の頭をぎゅっと抱きしめた。
「おれ、もう駄目かと思った、…っ、し、死ぬのかと思った…! よかった、桂木…!」
「…ぇ、」
なにか言っている。掠れて弱々しい声を出す桂木の口元に耳を近づけた。しゃくりあげるのを抑え込んで、何とか聞き取ろうとする。
「…何で…お前、ここに?」
「…ナ、ナカセ、ンに、き、訊いて……!」
「……」
俺の答えを聞くと、桂木は沈黙した。何を思っているのか、ぼんやりと俺を見ている。聞こえるのは俺の情けない呼吸音だけ。
こんなに顔色の悪い人間は見たことがなかった。これが土気色っていうんだろうか。心配になって、「大丈夫か」「気持ち悪くないか」と訊いてみた。でも、反応が無い。目を開けたまま気を失っているんじゃないかと半ば馬鹿げた事を考え始めていたところで、不意に桂木の目がなんだか眩しそうに細められた。
「お前…また泣いてるの…?」
「え?」
「ひどい…顔…」
言われて、空いた左手で自分の顔を触ってみた。
濡れていた。ああ、俺泣いてるのか。
そう認識する間にもそれはぼたぼたと頬を伝って、時折口の中に入った。
「しょっ、ぱ」
「……」
「…、桂木のせいだ」
「……そうだな」
「そうだ」
桂木はまた沈黙した。今度は俺もしゃべらなかった。なんだか頭がぼーっとする。
心底安心して、肉体的疲労と精神的疲労が一気に押し寄せてきたのかもしれない。体も妙にだるい。
まどろみの中、「新井?」と呼ぶ声が聞こえた気がした。
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