ショート・ストーリー 1 「帰って、来ない……」 呟いたら、怖くなった。 本当にこのまま帰って来なかったらどうしよう。 時計は11時を指している。 昼の11時。 時計を見てから思い浮かべる。 背が低くて、大きくてハッキリした目の強がりな彼。 ……それの繰り返し。 昨日から寝ていない。 ……あの人何してんだろ? ちゃんとご飯食べたかな。 俺みたいに寝られなかったかな。 ……大丈夫かな。 ──昨日、彼と喧嘩をしてしまったから。 だからこうして、悶々と思い耽っている。 せっかくの休みなのに。 喧嘩した切っ掛けは他愛も無くて……ぶっちゃけ言うと、何だったか思い出せない。 そこから発展していって、向こうも手酷かったけど俺もかなり言ったと思う。 うん、思い出したくない位色んなこと言ったわ。 うわーもうー絶対今日顔見れない。 スゴい罪悪感、誰か助けて……自業自得だよ馬鹿。 でも顔見ないと不安だ。 眠れないくらいに。 ……ホントに俺、あの人が居ないだけで死ねるかも。 ハァー……と溜息を吐いて、窓を見た。 雨粒がガラス面を幾筋も伝って下りていく。 昨夜から雨が降っている。 今はそれ程酷くないが、あの後彼が家を出て行った時はバケツをひっくり返したような土砂降りで、乱暴にドアを閉められた音がやたらクリアに聞こえた。 傘は持って行ってくれたらしい。 それで少し安心した俺は、やっぱり彼が好きな訳で…… 黙ってテーブルに頭を突っ伏した。 胸の辺りがゴヨゴヨして、こんがらかった物が蠢いている。 心臓の脈打つ速度も上がったり下がったり……緊張状態が続いている。 もう、どうしたらいいか分からない。 待つしかないのだ。 このままで。 ごめん。 ごめんなさい。 あんなことを言ってしまって。 帰ってきて。 帰ってきてよ。 眠れないとか言っておいて、寝てしまっていた。 気づくと部屋は暗くなっていて、雨の音も昼より激しくなっていた。 ……まだ、帰って来てない様だ。 椅子の上で身じろきすると、身体が固まってあちこちが痛い……特に節々。 薄暗い中、時計を見たら6時を差していた。 うっそ。 自分で唖然とする。 7時間も椅子で寝ていた訳? アホか。 そりゃあ身体が痛いはずだ。 あーあ……休み無駄になったなぁ。 本当だったら、今日は彼と出掛けるつもりだったのに。 立ち上がって、窓まで歩いていく。 昨夜と同じような土砂降りが街に降り注いでいた。 灰色だった空は真っ黒い雲に覆われている。 俺の気持ちとおんなじ。 苛々して、泣きそうで……不安に押し潰されそう。 ──ガチャガチャ 不意に玄関から鍵を開ける音が聞こえた。 ハッと振り返る。 玄関のドアが開いて、ゴソゴソと音がする。 ……帰ってきた。 良かった。 思わずそちらへ足を踏み出しかけた── ところで、ハッとする。 昨日の今日でノコノコと出迎えに行ってどうする。 単純なヤツって感じで……ヤダ。 それに、良い方向には行かない気がするんだ。 ……まぁ、それ言っちゃったら何をしても今はそうなんだけどさ。 でも、誠意を見せるとしたら? 行動するしかない。 分からないなら分からないなりに態度を示さないと──って、これじゃ綺麗事だろ! どうしよう。 もう靴脱ぎ終わってるよな。 もう来るよな。 あああ、待ってまだ心の準備が出来てない! どうしよう。どうしよう。どうしよう…… あれ? 来ないぞ。 ……もしや、まさかの聞き間違い? 幻聴?空耳オチ? いやいやいや。 でも、今確かに鍵を開けた音が。 俺は思わず玄関に続く廊下のドアを開けに行った。 「あ……」 その決して大きくない、寧ろこの静けさでなかったらきっと聞き落としていただろう、その小さな声に。 俺の心臓はバクンッと大きく飛び上がった。 雀の涙のようなそれの、抜群の破壊力。 彼は、玄関で靴も脱がずに立っていた。 びしょ濡れだった。 ミディアムショートの黒髪も、その下から覗く整った顔も。 びっくりして、つい「傘持ってってなかったの!?」と口走っていた。 あ、しまった。 と思った時には時既に遅し。 冷え切った無感動な双眸が、真っ直ぐに俺を射抜いた。 彼のその大きくてハッキリした、目が好きだ。 でも……こういう場面で、"目だけで語ってくる様な半端ない目力の目"で見られるのは物凄く苦手だ。 「……来て」 「……へ?」 ……何ですと? 「………」 「………」 どういう意味? ……え、どういうこと。 頭の中が空っぽになって、ポカンと彼を見返していたら、彼は俺の腕を掴んで引っ張った。 「うぉ……とっ!……えっ!?」 「来て。とにかく」 ガクンと体勢を崩し掛けて、慌てて立て直した俺に彼はそう言う。 来てって……外にか! 「何で!?」 「いいから」 ぴしゃりと返され、靴を履かされる。 怒鳴られた訳でも無いのに、この有無も言わせない空気。 従ってしまう自分が……悔しい。 傘を取って一緒に彼と外へ出た。 彼は何かに急かされるように、走り出した。 「わっ、ちょっと!待って!」 外はやはり、土砂降りである。 バケツをひっくり返したような豪雨の中を彼は傘も刺さず帰ってきたのは、何故──。 アスファルトの道路を進んで──5分も経たない内だった。 電柱の下に開いたままの黒い傘が転がっていた。 あれって── 彼が持って行ったはずの傘だ。 それから、どうして彼がびしょ濡れで帰ってきたのか。 俺を連れて再び外に出てきたのか。 昨夜のことに何も触れてこないのか。 何で、あんな所に傘が転がっているのか。 程なく、疑問は氷解した。 [次へ#] [戻る] |