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七堂伽藍
一時間目。
【深淵学園相談室へようこそ】












コツコツコツ。

鉛筆が紙の上で眠気を誘うリズムを刻む。

「はぁ…眠い…」

ぼさぼさの白い髪と寝不足のせいではない赤い眼をもつ眼鏡の男は小さく欠伸をした。三十代半ばのこの男は、最近この深淵学園に勤めることになった保険医だ。深淵学園は中、高、大学と一貫制の名門校である。

「はぁ〜眠みぃ〜…」

先ほど自分が発したのと同じような科白に後ろを振り返ると、腰まで届く朱金の長い髪の子供が欠伸を噛み殺していた。顔は整える気がないのであろう前髪に遮られて見えなかった。

「あの…あなた」
「おやすみなさい」


何年生のどこのクラスで何の用でここにきたのか、と訊こうとしたのに、子供はぼす、と音を立てて勝手に保健室のベッドに沈んだ。ちょっとムッと来て清潔感のある白いカーテンを素早く開けて、少々荒っぽく子供が被っている布団を引き剥がした。

「話を聞きなさいっ!何年生でどこのクラスで何の用で来たのか述べなさい!」


子供は既にすやすやと寝息を立てていた。

「−−ッ!!」

長い睫。艶やかな白い肌。可愛らしい桜色の唇。

−その子供は、お人形のようでした。

「お…起きなさいっ!」
「ふみっ」

男は勇気を出して子供の鼻をつまんだ。


「………う…っ」

子供は不快そうに柳眉を寄せて、眼を擦りながらしかたな〜く起きた。
瞳は綺麗なエメラルドで、眉間に皺なんか寄せてなかったら物凄くかわいいのに。

「なんだよ…」
「ちゃんと先生の許可は貰ってきたんですか?…今は授業中ですよ。」
「おれはぁ〜…るーく・ふぉん・ふぁぶれれす。」

子供は舌っ足らずな口調で自分の名前を述べる。

「学年とクラスは?」
「きゅうねんていでつきぐみれす。」

九年生ということは大学三年生になるのか。…それにしては小柄だ。

「…何故保健室に?」
「かーてぃすてんていのすーがくのじゅぎょうがたるかったかられす…」

保健室ははぁ、と溜め息をついた。

「…要するにサボリですか…」
「なんでもことばをりゃくすのはさいきんのわかもののよくないけいこうだとおもいまつ。…サボタージュといいなおしなたい…」
「もう若者って年じゃないんですが……それで、あなたはサボタージュしたんですね?」
「そうれす。…おやすみなたい。」

子供…もとい学生は再びベッドに沈む。保険医は慌てて起こした。

「サボタージュはだめです!戻ってカーティス先生に謝ってきなさい。」
「いやれす。かーてぃすてんていのじゅぎょうはたるいのれす。」
「授業をちゃんと聞いて、理解できるようになったら楽しくなりますよ!」

学生は胡乱な目で保険医を見つめる。

「…りかいできないんじゃねーれす。かんたんすぎるのれす。…あんなのようちえんのおままごとれす。」

保険医は再び溜め息をつく。…負け惜しみか?

「………!」

ふいに学生の睫がぴくり、と反応する。


「どうし−」
「−来たな。」

ばごん、とドアを壊しそうな勢いで入ってきたのは、今まさに話題沸騰中の数学講師カーティス先生だった。

「……朱い髪の男子学生が来ませんでしたか?」

隠し事をするとためになりませんよ、と脅すカーティス先生に保険医はこわごわ答えた。

「それは…今まさに…」

男の子だったのかと思いながらベッドを見やると、そこに彼の姿はなかった。

「…来ていたんですが…」
「チッ…使えないな洟垂れ。」

カーティスが吐き捨てるように言った。


「はっ…!洟垂れとはなんですか!…なんなんですかあの子は?」
「ルーク・フォン・ファブレ。とある財閥の子息。この学園の九年生で十三歳。」

保険医は首を傾げる。…今の発言は矛盾していないか。

「九年生で…十三歳…?」

カーティスは、ああ、と言いながら煙草をくわえて火をつける。保険医は一応、校内は禁煙です、と注意した。

「飛び級しているんですよ。なんでもIQは200以上の超天才児だとか…」

保険医はその言葉に納得した。

「ああ…それであんなことを…」

カーティスがぴくりと反応する。

「…なにか言っていたんですか?」
「あの…えっと…カーティス先生の授業はかったるいとか…簡単すぎてつまらない…あんなの幼稚園のおままごとだと…」
「…授業を彼のレベルに合わせるなんてことはできません。…そんなことをしたら他の生徒がついてこれなくなります…しかし…言ってくれますねぇ…?」
「あ…あの…」

カーティスは保険医の頭をがし、と掴む。

「誰の授業が幼稚園のおままごとですってぇ…?!」
「いたい!痛いですッ!言ったの私じゃありませんから!放して!」

カーティスは保険医の頭をめりめりと握りつぶそうとする。


「ハァ…あの子は私の授業だけサボるんですよ…ほかの授業は受けるのに…」
「嫌われているんですね。」

めりめりめり。

「やめてー!」
「今日は思わず感情的になって、授業を自習にしてまであの子を追いかけてきてしまいました…戻ります…」

カーティスは好き放題愚痴ると煙草の香りを残して去っていった。

「はぁ…厄日だ…」

「お疲れ様。」

項垂れる保険医を労うのは、朱い髪の子供。

「って…!あなたまだここにいたんですか?!」
「うん、隠れてた。…この香りはアメリカンスピリッツか…煙草の趣味だけは悪くない。」
「…あのねぇ、さっき先生が言っていたように、授業をあなたのレベルに引き上げるなんてできないんですよ。…ノートをとれとは言いませんから、授業だけは出てみませんか?…カーティス先生の為にも…」

ルークはふっ、と笑う。

「…やだね、おれあの先生嫌いだし、それにフェルマーの最終定理を知らないなんて教師としてありえない。尊敬できない。」

きっぱりと拒否されて、保険医は諦めの境地に入った。そんな保険医をルークはじろじろと無遠慮に見る。

「…なんですか?」

「…さっきからおかしいと思ってたら、あんた、カンタビレ先生じゃないな?」

「…今頃気付いたんですか…?」
「カンタビレ先生は?」
「…知らないんですか?…カンタビレ先生はお辞めになったんですよ。…私は、最近勤め始めた保険医です。」

それを聞いてルークはとても寂しそうな顔をした。

「お別れもいってくれないなんて…おれ、嫌われてたのかな?」
よくここに来ていたのに、と俯くルーク。

「そんなことは−」

「失礼します…です。」

落ち込んだルークを励ます言葉を模索していたら、桃色の髪の小柄な女の子が入ってきた。

「あなたは…?」
「アリエッタはアリエッタです。四年生桜組です。」
「あなたも飛び級ですか?」

アリエッタと名乗る少女は顔をしかめた。

「アリエッタは正真正銘十六歳です!失礼です!」
「あ…すみません…」

保険医は思わず謝ってしまった。
アリエッタはすたすたとルークに近づく。

「ルーク…今日の分のキュウリとゴーヤの糠漬け…です。」

「サンキューアリエッタ!これおれが作ったチーズケーキな!」
「ありがとう…です。ルークの作ったケーキはおいしい…です。」

ルークは嬉しそうに笑うと、漬け物とケーキを交換してもらっていた。

「失礼しました…です。」

アリエッタは用が終わると去っていった。ルークは早くも漬け物をつまんでいる。

「い…いまのは…?」
「おれは漬け物がスキ。アリエッタは甘い物が好き。…でもアリエッタは漬け物を漬けるのが上手くて、おれはお菓子作りが得意。…ギブアンドテイクってやつだよ。」
「はぁ…」
「…あんた、名前は?ルークはぽりぽりと漬け物をかじりながら問う。

「…先生でしょう…?…サフィールです。」

保険医は仕方なく名乗った。

「サフィール?」
「はい。サフィール・ワイヨン・ネイスです。」
「ふうん…おやすみなさい、サフィ。」


ルークは小さく欠伸をすると、もぞもぞと布団に潜った。

「勝手に…略さないでください…」

保険医が文句を言う前に、ベッドからは静かな寝息が聞こえていた。












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