嫉妬 思わず呆けた思考になったのは其の光景が余りにも信じられなかったからかもしれない。自分は余り過大に物事を考えない(逆に言えば現実を見すぎる)所があるのだけど、其のチラリと見た光景に何も思わないなんて事、僕には出来なかった。 笑う二人が頭を掠める。何時の間に、あんな顔を見せるようになったのだろう。 「…あ、お釣りは良いです」 ちゃりんと煩わしい小銭を渡そうとする店員にそう声を掛けた。別に態とらしく格好を付けた訳ではない。財布を置いてお金だけを持ってきてた自分に、返される小銭は邪魔でしかなかったからだ。 少し突っ慳貪になってしまったけど、相手の店員はありがとうございましたと頭を下げる。白いビニール袋を持って外へと出た。 曇り空は晴れることなく広がってる。そろそろ降るのかもなと思った。 「……雨、か」 ――靄が掛かっている。そう思った。其れはきっとあの光景の所為なんだけど、其れを確かめるのも嫌だった。別に改めて問い質すような事でもないと思うのだ。特に彼とは親友だから。 一昨日の事だった。珍しく早朝出勤じゃなかった僕は久し振りに皆が集う食堂へと向かった。其処で僕は見てしまったんだ。仲睦まじく話す親友と好きな子の姿を。 別に厭らしい感じではない、ただ話しているだけ。僕を見つけると彼女は寄ってきてくれたし、それに前々から彼女がスパナの事を聞いてきてたから仲良くしてるのかなとも思った。 それでもずきんだなんて心は痛むのだから、何て図々しい気持ちである。独占欲なんて馬鹿らしいにも程がある。親友に、嫉妬だなんて。 嘲笑うかのように降り出した雨。僕は傘も持たず、しばし空をじっと見つめた。 「……降り出したな」 傘持ってきてないのに困った。 「…あれ。正一君?」 「え……あっ、綱吉君」 雨をボーっと見ていると話しかけられる。話しかけた人物は僕の顔を見るとやっぱり、と安心したように笑った。 彼の性格上、話しかけといて違ったらどうしようという不安があったのだろう。強ち自分もそういうとこがあるので「大丈夫、僕だよ」と笑い返した。 沢田綱吉。彼は肩書き上は僕よりも幾分上、仮にもトップに立っている人なのにこうやって普通の格好で道端を歩いてたりする。10年前には想像出来なかったような威厳と尊厳と男らしさを纏っているのに、スーツを脱げばあの頃と変わらない、包み込むような暖かい笑顔を向けられる人だった。 色々あった未来だけど、いまはこの人の下で働けていることを幸せに思う。そういう事を言うと必ず彼は慌てたように照れるのだけど。 傘わすれたの?と聞かれ頭を縦に振る。いつも用意周到な自分には珍しいことのようで、そういう日もあるんだねと彼は目を丸めた。 「?でもコンビニの前だけど」 「それが…ちょうどのお金しか持ってこなくてさ」 「ああ、そっか。じゃコレ貸すよ」 差していた方ではなく手に持っていた無地のビニール傘を僕に差し出す。何故二本持ってるのかと聞く前に京子ちゃんに持って行くつもりだったんだ、と彼は説明した。 その理由を聞いて返そうとしたけど綱吉君は大丈夫だと笑う。いや、でも、僕は濡れて帰ってもいいし…。 「持ってったと思うけど、分かんないから二本持ってきたんだ」 「そうなの?…用意周到だね、綱吉君」 「えっ、あ、そうかな」 照れながら話すその顔はやっぱり昔と変わってない。強いていえば、その顔には落ち着きというものが見えるようになった。笹川さんと上手くいってるの?なんて聞くと途端に慌てだす彼だけど、そこもまた彼の魅力だ。 ありがとう、と笑ってその傘を受け取った。 透明な傘を広げ帰り道を歩き出す。綱吉君も途中までは同じ方向のようで、しとしと降り続く雨の中を並んで歩き出した。 「そう言えば、正一君家庭教師始めたんだったよね」 「え?ああ、うん」 「この前遊びに行ったらスパナと話してて…可愛らしい子なんだね、零ちゃんだっけ」 ピクリと体が動いて静止する。どうしたの?と聞かれて慌てて大丈夫だと笑った。こんなちょっとした事ですら耐性が利かなくなってるのは自分でもどうかと思う。と同時にこれじゃあ昔やってた上司を欺くなんて行為いまの自分には無理だなと思った。 いや、勿論仮の話で、する気もないのだけど。 察知されないようにしたのに察知したのは流石と云うべきか。それとも《彼女の家庭教師を引き受けた本当の理由》を彼には話したのだから当たり前というべきか。 どうかしたのと言わんばっかりの顔で見つめる彼に苦笑いを浮かべる。言うつもりは無かったけれど誰かに聞いてほしいのも事実だった。 「せっかく"初恋の人"に会えたのに、元気ないみたいだね」 「…あ、その……実はさ」 無様な気持ちを吐露するのはやはり格好悪い。それでもこの気持ちは消えてくれないのだから、吐き出すのも手だろうと自分でも思う。 「嫉妬してるんだ…スパナに」 「友達に嫉妬するなんて」 「かっこ悪い」 愚痴のような悩みを迷いながらも彼に吐いていく。 余り深刻に見せたくなくて笑いながら話したら、何故だか無性に苦しくなったけど。隣の彼が茶化すことなく黙って聞いてくれたから幾分救われた気がした。 話し終わって余った時間を無言で埋めてくれる彼に感謝した。 深い息を吐きながら僕は自嘲する。 「彼女に友達が出来るのは良いことなのにね…それに相手はスパナだし」 「正一君」 「…馬鹿みたいだよ」 予想以上に短かったその道は、すぐ自分達の別れる場所まで着く。手前に来てた分かれ道を見ると、僕は立ち止まって振り返った。彼はここから笹川さんの働くケーキ屋まで行くらしい。ここまでだね、と頭を掻いて笑った。 つまらないことを話してしまったと思う。嫉妬する男の話なんて、世辞にも面白い話とは言えない。 「ごめん、変な話して…もっと大人にならなきゃいけないって分かってるんだけど」 「……」 「あ…と、それじゃあ僕はこっちだから、ありがとう傘」 踵を翻し歩こうとすると、だろう。佇んでいた綱吉くんから声をかけられた。 「…正一君さ、」 「ん?」 「そんな落ち込まなくても良いんじゃないかな。多分だけど」 「…え?」 「だってこの前…零ちゃん言ってたよ?最近正一君が忙しくて教えてもらえないから一人で頑張らないとって」 「…そんなこと言ってたの?」 「うん」 「正一君の負担減らすために毎日勉強の時間増やして頑張ってるって言ってて…だから、正一君想われてるんだなと思った。 悩む必要ないと思うけどな」 じゃあまたね、と彼は微笑みながら細い路地を歩いていく。離れていく背中を見つめながら、何だか自分は呆れるくらい単純なことに悩んでいたのではと思った。 絡みついて離れなかったのにいとも簡単に消えてく悩みに少しだけ動揺したけど、是だけの物だったと思えば合点がつく。僕が考えなきゃならないのはそっか、こんな事じゃない。 ジャリと靴の摺れる音が聞こえる。歩いていった彼でもなく僕のでもない、誰かの足音。 『あれ…正ちゃん?』 その人は僕だと分かるとにこりと笑った。片手にもう一本畳んだ傘を持ち、参考書買いに行くついでだったんだけど、なんて頭を掻き近づく。 『傘持ってきてたんだね、意味なかったね』そう話す彼女は僕が本当は傘を忘れたことには気づかなかったらしい。そんな自分も、彼女が遠回しに自分を迎えに来てくれたと言う事実に、心なしか気付くのが遅くなってしまった。 「あ……もしかして…迎えに来てくれたの?」 『あ…その……傘持ってないと思ったから…うん』 嫉妬しようがどうしようが、もう関係ないんだと思った。彼女が親友と仲良くなろうが。僕はこの人とまた会えることを望んだし、そしてそれが、有り難くも叶った。 それ以上に望む事が有るのだろうか。 いや、きっと無い筈だ。 恥ずかしいのだろう、気まずそうにする彼女の手を引いて抱き寄せる。道端でこんなこと、と思ったけど気にしない事にした。 『わっ、正ちゃん…?』 「……」 『あ、あの…』 「…ありがとう、迎えに来てくれて」 『い、や……でも意味なくて』 「いや…来てくれたことが嬉しい」 『そう…?なら、よかったけど…』 傍に居れる、その事実だけで嬉しいのに嫉妬するなんて僕は欲張りだ。でも其れだけの想いなんだ。そう思うのも仕方ないだろう? だから、その代わり、 「もう嫉妬はしないよ…」 『え?』 「ううん。…参考書、買いに行くんだよね。僕も手伝うよ」 今はこの子の力になりたいとそう思う。そして自分の事も知っていってほしいと。 僕が"彼女に会いたかった理由"を彼女は思い出せるか分からない。だけど、それでも全てを知ってほしいと思うんだ。本当の僕の気持ちを。 抱き寄せるために下ろしてしまっていた傘を畳んで離れる。僕のために持ってきてくれた傘を、彼女から受け取って差した。 「それじゃあ遅くなるから… 行こうか、零」 幾分雨が弱くなった道を歩き出す。さっきまでただモチベーションを下げるだけだった雨が、こんなにも綺麗に見えるなんて人間の気持ちはまた単純だなと思った。そんな事を考えていたから、気づかなかったんだ。 彼女がいま何を考えているかも、芽生えつつあった思いも、何も。 『あの…正ちゃん?』 「ん、なに?」 『あっ、いや』 いきなり呼び捨てで呼んだ事に戸惑ってるんだろう。そう思ったけど、敢えて触れない事にする。だって僕だって恥ずかしいんだ、その所為で顔だって赤くなってるし。 彼女が側にいると僕は幾分大胆になるな、なんて苦笑しながら本屋までの道をゆっくり歩き出した。 envious (嫉妬心。そんな気持ちを放置してしまった僕は気付く筈もないんだ。 親友が同じ人を好きになってる事なんて。) [←][→] |