意識 掌はまだ、優しい温もりが残ってるようだった。朝起きたら手を握っていた彼はいない。わたしは寝ぼけ眼で掌を見つめた。スパナさんはあの後どうしたんだろうか、ちゃんと寝れたのかな? 掌に問いかけようとも、その答えは見えて来なかった。 『悪いことしたな…』 見慣れない廊下を歩きながら呟く。手には参考書とノート。正ちゃんの部屋に向かっていた。寝てるときにスパナさんが部屋に来たことは、きっと誰にも言わない方がいいよね。(勝手に使ってたとか言ってた気がするし) まだ整理の付かない頭でそんな事を考えた。 『……あ、ここだ』 暫く歩くと辿り着いた正ちゃんの部屋。私はドアの前で立ち止まると辺りを見回した。どうやら皆の部屋とは大分作りが違うようで、何となくこの部屋の広さが伺えるような身構え。すごいなぁ(正ちゃんの部屋…綺麗で羨ましい) コンコンとノックをしてみる、だけど何故だか、誰も出てこようとはしなかった。あれ、約束この時間だったよね?(間違えたかな) 仕方なくノブを回すとドアが開く。悩んで勝手に入って大丈夫かなと思いながらも中に入った。 中は想像したとおりか、広い。 『わ、広い……ってあれ、正ちゃん?』 「ぐー…」 『寝て、らっしゃる』 今はもう昼だというのに、正ちゃんはソファーの上で眠っていた。凄い寝方だなぁ…眼鏡も外してないよ。(というか服乱れちゃってる) 昨日は正ちゃん夜遅くまで仕事してたらしくて、テーブルの上には沢山の書類が乗ってた。休日出勤とか言ってたのに、(本当にご苦労様だな) ソファーの隣に蹲って、寝ている彼の頬をツンツンと触る。ムニャムニャと正ちゃんは口を動かした。(わ…可愛い) 『正ちゃーん……勉強教わりにきたんですけど』 「……ん」 『疲れてるなら、明日にしましょうか?』 正ちゃんは少し目を開けた気がするけど、余程眠いのかまたそのまま目を閉じた。今いった言葉、聞こえてたかな(うーん、)(聞こえてないよね) 約束は今の時間だし、勝手にまた明日なんて決める訳にはいかないし。正ちゃんが起きるまで待ってるしかないのかな。これは。 『起こすのも、可哀想だもんね…』 「……」 『うん…そうしよう』 よいしょ、と手に持ってた荷物をテーブルに置く。勝手にさわって良いかなと思いつつテーブルの上に散らばってた書類を纏めて隅に置いた。イタリア語、なのかな。読めないけど難しそうな文面。(何か、すごい) 仕方なく参考書を広げて、ペンを取る。起きるまで自主学習することにした。 『……』 「……」 『…あ。そうだ、毛布かけてあげよう』 手を伸ばして、ベッドの上に置いてある毛布を正ちゃんにかけた。何だか流石に、服が乱れてるのは見てられない(集中できない…というか、)(風邪引いちゃうだろうし) ぽんぽんと体を叩いてまた机に戻る。でも、何故だか右手が引っ張られる気がして動けなかった。よく見ると袖が何かに引っ張られてる。あれ、もしかして… 『…正、ちゃん?』 「……」 『目、覚めました?』 「……う、ん…」 『……』 「覚めた、かも…」 トロンと舌足らずな声で彼は呟く。覚めたかも、その言葉が可笑しくてちょっと吹き出した。寝てるときの正ちゃんは何だか可愛いなぁ。(寝顔といい) 勉強教わりにきましたよ、まだ寝ぼけてる正ちゃんに話す。私の袖をギュッとしたまま、「寝過ごした…ごめん」そうつぶやいた。 『大丈夫ですよ…昨日も忙しかったんでしょ?』 「……」 『キツいときは無理しないで良いですから』 「……」 『あ、おにぎり食べますか?お腹空きそうだったから一個だけ作ってきて』 「……敬語」 『へ?』 「敬語使ってる… 約束、したよね?」 むくりと起き上がって彼は見つめる。敬語、そう言われて漸く気付いた。あ、そうだった…(敬語使わないって)(約束したんだっけ) 掛けたままで歪んでいた眼鏡を、正ちゃんはソファーに座ってかけ直す。私は慌てて謝った。 『ご、ごめんなさい…忘れてて』 「……忘れてたの?」 『あ、いや…その』 「……」 『ごめん、なさい』 「……」 『…正ちゃん?』 「……約束破ったから、お仕置きする」 『え、お仕置き?』 「うん。」 きょとんとする私を置いて正ちゃんは私の肩に手を置く。まだ寝起きの鋭い目で私を見てきた。え、え(正、ちゃん…?) 気のせいか、徐々に近付いてくる彼の顔。わたしは心臓が五月蠅くなって目をギュッと瞑った。でもそのときだろう。感覚は予想していた場所じゃなく、違う場所に現れる。オマケに、これは、 『!!いたっ』 「……」 『ちょ、正ちゃん?』 「ん?」 『なにこれ』 「約束破ったお仕置きだよ。痛かった?」 『痛かったって…鼻つまみがお仕置きなの?』 「うんそう」 『……』 「?ごめん、そんな痛かったかな」 正ちゃんはわたしの鼻をギュッと摘んだらしく、凄い痛みが鼻に走った。な、何だ、コレ(お仕置きって…)(もしかしてこれのこと?) ニコニコと笑ってる正ちゃんを見る。なんとも満足そうな顔だった。 はあ、何だ。そうだったのか。 こんなにドキドキして、(馬鹿みたいだな、) 「?どうしたの」 『…いや、自分の勘違いが恥ずかしくて』 「勘違い?」 『うん…』 少しずつ正ちゃんから離れて、頭を掻く。自分の単純さとか、何だかこうなると色んな事が恥ずかしくて堪らなかった。キス、されると思うとはな…(ああ、恥ずかしい) でもその瞬間、いきなり手首が掴まれる。わたしは驚いて顔を上げた。 『え…正、ちゃん?』 「……」 『どう、したの』 「……もしかして、キスするかと思った?」 『!…あ、その…』 「……」 『少しだけ…でもする訳ないよね、はは』 「……」 『正ちゃん?』 「…自重したんだ、嫌われると思って」 『え?』 「本当は……奪ってやりたかったんだけど」 『……』 真剣な彼の目に驚く。え、え…(どういうこと…?) でもわたしの挙動不審が分かったのか、ふっと正ちゃんは吹き出す。 「なんてね。冗談に決まってるだろ?」そう言って彼は頭を撫でた。 『あ…だよ、ね』 「うん。零ちゃんも嫌そうな顔したしね」 『!あ、いや、そんなことは』 「はは、そうかなぁ」 んーと背伸びをして正ちゃんは立ち上がる。おにぎり貰うね、彼は私の横で準備しながら食べ始めた。わたしはさっきの言葉に動けなくて、どうしようもない。思考が廻らないまま暫くぼーっとした。 本気で、言った訳じゃないんだよね…。(だよね、まさかね) 「……ん?どうかした」 『あっ、いや…何でも』 「?そう」 心臓が五月蠅くなって、何も手に着かなかったんだ。やらなければならない勉強さえも。 というより寧ろ、何も考えられなかった。 「あ…ごめんね、鼻赤くなったね?」 『え?あ…大丈夫だよ、全然』 「……でも、なんか」 『ん?』 「…ちょっと可愛い」 なんでこんな優しい笑顔を私に向けてくれるのか、わからなかった。ただ罠に嵌ったように、 この日から彼を意識するようになったんだ。 conscious (冗談なのに、気があるのかな、なんて思う自分が恥ずかしかった。 頭を撫でられて ドキドキしてしまう、そんな自分が。) [←][→] |