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-惟神の道--
神道の教えと基盤


神道でいうところの神は、自然崇拝から始まって、氏族の始祖を祀ったのが始まりであり、その始祖が氏神であるところからみて、神道は祖先を崇拝する基盤の上に立っていることは明らかです。
そして、常に、神意のあるところをわが心とし、これを指針として日常生活を営もうとするところに神道の理想的な生活があります。

さらに倫理的基盤としては、この神意を求めて、これらを自らの生活規範とする敬虔(けいけん)な態度こそ、「まごころ」あるいは「まことの心」の表れにほかならないと思います。
日本民族においては、遠い祖先以来、道徳的徳性の根元として、この「まごころ」「まことの心」というものが重要な位置を占めてました。
古事記や日本書紀の中にも「アカキ心」「キタナキ心」という言葉がみえますが、アカキ心は「明心」であり「赤心」ということで、いうまでもなく「まごころ」あるいは「まことの心」にほかなりません。
キタナキ心はアカキ心の反対で、「濁心」「穢き心」「黒心」とも書きますが、これは邪悪な心です。
闇にとらわれ染まった心ですね。
アカキ心こそ、明るい清らかな心であり、これが神道の道徳的精神であります。
天武天皇(673ー688)は、明・浄・正・直・勤・務・追・進の冠位の名称にしました。これらはいずれも「まごころ」「まことの心」を基盤として、道徳的活動と修養に努める精神が、神道の道徳的生活規範であることをよく示しているというができます。
この中にある「明浄正直」の明は、明るく晴れやかな気分であり、浄は清らかで濁りのない清々しい一心です。正はうそ偽りない公明正大な心。直はまっすぐで、どちらにもかたよらない心を意味しています。

アカキ心は清浄潔白を尊ぶ心でありますから、当然、汚穢を嫌い、清浄を喜び尊ぶ思想となります。
古くから行われてきた禊祓(みそぎはらえ)は、汚穢、不浄をとり除き、すばやく清浄な心身となるための方法なのです。神道にあるさまざまな儀式は、こうした禊祓、清浄、清々しさを尊ぶ精神の具体的な表れにほかならないのですね。
おごそかな神域に入ると、その森厳さに自然と心身がひきしまる思いがするもの、ですから神社に参詣する場合には、あらかじめ不浄を払い、清らかな心身を保って神前に向かうのが原則であるから、これは一般の参詣人に限らず、もちろん神職にしてもなおさら同じことがいえるので、神職は神事に際しては、修祓(しゅうばつ)あるいは潔斎(けっさい)をおこなって身を清めます。修祓は、みそぎ(身を洗い清める)を行うこと、潔斎は「物忌み」とも、あるいは斎戒(さいかい)ともいって、一定の期間、飲食や言行をつつしみ、水浴などで汚れを除き、心身を清潔な状態に保つことです。
公的祈願にしろ私的祈願にしろ、神に祈る心構えとしては、いっさいの疑心があってはだめですし、最も大切なことは、けがれのない、清きまごころで祈ること、そこに初めて神明の感応が得られるとされます。
「神は非礼を受け給わず」と言われるように、祈る内容も、正しい道理、正しい目的のものでなければならないのはいうまでもありません。
したがって、神の存在を信じるか信じないかは、それぞれの生活規範のなかで、神を求める敬虔な態度で接しているかどうかにかかわってくる問題といってよいでしょう。
自ら神意の存在するということを推しはかり、これを生活規範にとり入れるならば、山河であれ、風雨などの自然現象であれ、あらゆる動植物のように生命のあるものはいうに及ばず、この世のすべてのもの、いわゆる森羅万象、どれ一つをとっても神の存在しないものはないと信ずることができるようになります、神々は常に立派に存在しているのです。





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