裏地球史ミステリー 邪馬台国(やまたいこく) この広い世界は…謎に満ち溢れている! アトランティスみたいに 邪馬台国は現代では海の中なのか? 邪馬台国(やまたいこく)とは、3世紀に日本列島に存在したとされる国(くに)のひとつであります。 ちなみに、ここで使われている国(くに)とは、この時代の中国漢文でいう国(こく)=塀、柵、堀などで囲われた砦の町のことでります。 中国の史書では、邪馬台国は卑弥呼が治める女王国であり、倭国連合の都があったとされている。 邪馬台国の所在地が九州か近畿か、21世紀に入っても日本の歴史学者の説が分かれていますね。 邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群など諸説が乱立していますがf(^^; 日本に邪馬台国があったとする根拠は、『日本書紀』の神功皇后の記述に、「魏志倭人伝」の引用があり、神功皇后と卑弥呼を同一人物と見なした記述があることであります。 (参照→Wikisource) 厳密に「魏志倭人伝」の行程どおりに素直に距離と方角を辿ると邪馬台国は太平洋のど真ん中に行きつくのですね。 ゆえに、江戸時代から現在まで学界の主流は「畿内説」と「九州説」の二説に大きく分かれている。 ただし、九州説には、邪馬台国が”移動した"とする説(「東遷説」)と"移動しなかった"とする説があります。 「東遷説」では、邪馬台国が畿内に移動してヤマト王権になったとする。 だから邪馬台国の場所について、多くの人が膨大な時間と労力をかけて論じてきました。 にもかかわらず、今なお諸説入り乱れ一致をみていないのが現状なんです〜(^o^ゞ このような混乱が生じた原因は、『魏志倭人伝』の不正確な地理像によると考えています。 あるべきものがあるべき場所にあったならば、日本古代史はこれほどまでに謎に包まれてはいないですね。 (-""-;)(;-""-) 『後漢書』倭伝と『魏志倭人伝』とをつき合わせてみると、記述の範囲が共通する部分は同一原典に基づくことが察せられる。 共通しない部分は両者が参照した資料には無かった可能性が高いです。 邪馬台国は畿内大和であると考えると、しかしそのように考えるには、『魏志倭人伝』の方位の記述、南を東と修正しなければならないですから。 『魏志倭人伝』は邪馬台国の位置を、狗邪韓国のおおよそ南として描いている。 しかしその地理像を現実の地理に当てはめると、邪馬台国は、はるか九州の南の海上になってしまうのですね(汗)。 つまり、正しい方位の認識なしに、邪馬台国に到達することは不可能であります。 アトランティスみたいに海に沈んだのか?(^o^ゞ 邪馬台国に至る道程は 帯方郡(北朝鮮平壌南方)→狗邪韓国(クヤカンコク・韓国金海付近)→対馬国(対馬)→一支国(壱岐)→末廬国(マツロコク・佐賀県松浦)→伊都国(イトコク・福岡県糸島)→奴国(ナコク・福岡県那珂)→不弥国(フミコク・福岡県宇美)までは良いですが これより南へ水行20日で 投馬国(ツマコク)、投馬国より南へ水行10日、陸行1月で邪馬台国へ至るという記述で不審が生じます(^_^;)。 この日数ほども南へ行けば九州をはるかに過ぎて南海に出てしまいます。 そこで、この南は誤りで東とすれば丁度大和に行くことになります。(邪馬台国畿内大和説) 南は正しいが日数を誤ったと考えます。あるいは、日数を帯方郡ー投馬国ー邪馬台国の行程と見ます。 そうすれば、邪馬台国は九州にあることになります。(邪馬台国九州説) まぁ両説は水掛け論になっていますが(-_-;) [*前へ] [戻る] |