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神の名鑑
阿弥陀如来
【阿弥陀如来】

釈迦は歴史的実在の人物でありますが、現在とは年代的に遠い隔たりがあります。

そこで、その悟られたことが、われわれを救うためのものであるとすれば、悟りの内容は釈迦自身が

この世から去っても現在に伝わるべきものだということから、そのはたらきを
実感させてくれる救いの仏が考えられた。

これが阿弥陀如来である。
その働きは「慈悲と智慧」である。

この二つの徳性をサンスクリット語で(アミター)といい、すなわち智慧の光と慈悲の命は無量無辺で限りがないという意味です。

この仏のはたらきとして
智慧の光と慈悲の生命の限りないことを表している光は十方の空間的な広がりを示し生命は過去、現在、未来の三世に及ぶ時間的無限性を表している。

つまり、いつでも、どこでも、われわれを救おうとしている仏です。

□阿弥陀如来の出自
無量寿経:阿弥陀経:その他
□原名:アミターバ
□旧姓:法蔵菩薩
□尊称:阿弥陀さま。
□別称:無量寿如来
無量光如来

特質:念仏往生、万民救済

「仏」とは、ほんとうは目には見えないものなのである。しかし、凡人にとってはそれを形に表現してみないとよく分からないので、
『心は形をすすめ、形は心に従う』というように、仏師たちが仏像や画像などを通してそれがわかるように精魂を込めて具象化したものが仏像です。

ただ我が国の神仏にしても、その霊力を形に表すか否の差で、表したからといって形そのものに霊が宿ると考えているわけではないです。
禅の逸話にこういうのがあります。
ある日、弟子が師匠に「わたくしたちは毎日仏像に向かって礼拝していますが、仏はほんとうにあの中に宿っているのでしょうか」と尋ねたところ、

師匠は「宿っているかどうか、たたき割ってみたらどうか」というので、さっそく壊してみたら、中にはなにもなかったという。

仏像を偶像と呼んでもいっこうに差し支えないが、問題はそれに対して自分がいかなる態度をとるかである。
それはちょうど、本の価値が用途によって変わるのに似ている。
ある者は本をまくらとして使い、ある者は本として内容を消化する。
同様に、仏像を眺めて偶像と思うのも、象徴と思うのも見る人の自由であるから

ただし、その見方は自分の生活態度に影響を与えずにはおかない。

仏像は礼拝の対象として、仏師が精魂込めてつくったものである。いくら立派な仏像を鑑賞しても、拝んでも、その当人が仏像の背後に秘められた仏の心を読みとらないかぎり、仏像の真の意味をとらえることはできない。
それには、まず謙虚に、そしてひたむきに仏の心に耳を澄ませ、その心と一体となるべく手をあわせなければならない。

仏像を拝むとはほんとうの自分を拝むことにほかならないからであります。




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