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タナトスの涙
「ケンちゃん、知ってるー?」

 僕の三歩前を歩くのは幼馴染み。いわゆる不思議ちゃんのような言動を繰り返す子ではあるが、本来はそんな子ではないのだ。だって、こうなったのは五日前からだし。
 同じ病院の同じ病室にいて、同じ日の同じ時間に違う分娩室で生まれ、家も隣り同士で小六まで一緒に風呂にまで入っていて、中二まで同じベッドで寝ていて(もちろん嫌らしい意味ではなく、だ)、高二である今までずっと同じクラスである僕が言うのだから間違ない。頭でも打っただけだと思う。それか、春の陽気に流されているかだ。

「むかぁし昔、ギリシャの神様のお話です」

 なんだ。ギリシャ神話か。偉そうに人差し指を立て、僕の顔を見ながら後ろ歩きなんかして。転ぶぞと忠告したが無視された。よし、転んだら無視してやる。

「タナトスっていうのはねぇ、その中でも死の神様っていうか死の本能っていうか……。なんかそんな感じのでで〜んとした奴でね」

 どんな感じのどんな奴だよ。偉そうに自信満々に自慢げに話すわりには曖昧な説明だ。
 本当に、ちょっと前まではこんな子じゃなかったんだけどなぁ。ふわふわぽわぽわしてるところはあったにせよ、しっかり者の女の子だったのに。これじゃただの精神年齢三才の女子高生じゃないか。

「タナトスは嫌われ者なんだ。だって、タナトスに髪の毛を切られたら死んじゃうから。だからみぃんなね、タナトスが現れたら泣いて嫌がるんだって」

 まぁそうだろうな。
 死というものは、生きている全ての者に平等に訪れる。死なないものは生きていない。そんなようなことを言う偉ぁい人が昔、いたような気がする。誰の言葉だか忘れたけど。
 それでも何の苦も感じない時なんか、すっぽりとそんな重大なことを忘れているもんだ。だからこそ死とは恐怖だというような感覚を、人間は持ってしまったんだと思う。というか、今、そんなようなことをふと思った。

「ねぇケンちゃん」

 僕はその時、初めて彼女の顔を見た。彼女は立ち止まり、じっと僕を見つめている。悲しいような、困ったような、はたまた何も感じてはいない、無表情のような。そんな顔をしていた。
 あれ、肌の色、そんなに白かったっけ。僕は今までの十七年なんてなかったかのように、彼女の顔も声も肌の色も、上手く思い出せなかった。ずっと一緒にいたのに。

「あたし、嫌じゃないよ」

 刹那。
 風がさらりと吹いた。
 さほど強くないその風に、彼女の髪が揺れて、何故だろう、はらりと舞った。さくっと切られたかのように。木の葉が落ちるのと同じに見えた。
 僕は必死で足に、全身に、力を振り絞って駆け出した。三歩先の彼女へ向かって。きらきら光っているものは彼女の涙か、僕の汗か。分からないけど手を伸ばして……。

「……ちゃん? ケンちゃん!」

 掴んだのは、彼女の細い肩。心配そうな顔をはっきりと認識した途端、チャイムが鳴った。あれ、僕は、一体……?
 彼女の服装は紛れもなく我が校の体操着。良く見ると、僕が着ているのも我が校の体操着。とりあえず起き上がってキョロキョロと周りを見渡してみる。白いシーツに白い天井、クリーム色のカーテンで隔離されているベッド。もしかして、保健室?

「良かったぁ。ずっと起きないからどうしようかと思っちゃった。もう今日の授業は終わったよ。さ、帰ろ。立てる?」

 のんびりした口調で急かされるなんて、と思いながら、僕の記憶は一限目の体育まで逆上った。確か、彼女が投げたハンドボールが五十メートル走をしていた僕の頭に直撃したのだ。彼女も体操着のままってことは、一日中ここにいてくれたってことだろうか。授業はどうしたんだと聞いてもせっかくだからサボっちゃったなんて返ってくるのだろう。

「頭、大丈夫?」

 もう少し言葉を選んでもらえないだろうか。大丈夫だと返事をしながら立ち上がった時、不意にあの場面が脳裏を過ぎった。きらきら光る雫。それに伴いぐらぐら揺れる心。どくりどくりとうるさく鳴り響く心臓。嫌な汗がまた、気持ち悪い軌道を残す。

「……ケンちゃん?」

 あれは彼女の涙でも僕の汗でもなくて、もしかして、もしかすると……。





お題拝借:ginger


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