消せない過去03
「カズ……じゃなくて、橘くんさ、学校はどう?」
あの頃イツキは僕をカズと呼んでいた。わざわざ言い直すくらいなら話しかけてくれなくても良いのに。
すっかり月も高いところへ昇って行った午後十時半。子供達が全員帰るまでイツキは託児所にいた。最後の女の子が千切れるんじゃないかというくらいに手を振る姿が見えなくなった後、僕は彼女を家まで送ることにした。
「学校? 別に、どうってことないけど」
というより今は学校のことを考えたくなかった。今が夜で良かったと思う、きっと僕は酷い顔をしているだろうから。冷たい風に顔を上げてみれば、気を利かせてくれたのか、月は雲に隠れていた。
「ふうん、そっか。じゃあさ、中学と高校、どっちが好き?」
「幼稚園」
「なにそれ」
「聞くなよそんなこと」
「どうして?」
だって、答えられないだろ。
イツキといると心が和んだ。イツキと話すと安心した。イツキが笑うと僕は幸せだった。いつしか彼女が僕の行動を支配した。全ては彼女のために。だって当然だろ? 息苦しい環境の中で溺れて下手にもがいていた僕を、彼女だけが掬い上げてくれたんだから。
恩返しの、つもりだった。
「良いだろ、どーでも」
「なんでどーでも良いの?」
なんでどーでも良いの?
むしろ僕が知りたくてたまらない。
少なくともこれまでの高校生活は、自分を制御しきれないでいた中学時代よりキラキラしていたはずだった。それが今になってどうして急に崩れたんだ? 千笑子ちゃんの一件以来だ、だが千笑子ちゃんのせいでキラキラが崩壊したわけではない、それは分かっている。
「駄目だよ、ちゃんと前見なきゃ」
小さな子供を叱るみたいな優しい話し方。イツキはまだ、僕の知ってるイツキだった。膨れっ面に微笑みを返したいところだが、無理矢理にでも頬をあげる気力が出ない。
「あ、でも前だけじゃ危ないよね。ほら、横断歩道を渡るときにさ、右見て左見てまた右見るでしょ?」
「なんでそんな話になった?」
「さーあね」
夜のひんやりした空気が僕達を包む。一括りにされているような感覚だというのに、イツキの悪戯な笑顔の裏が読み取れない。もはや僕達は一つではいられないのか、嫌でもそう錯覚させられるのが苦しい。彼女はどうなんだろう。
「じゃ、もうこのへんで良いよ。学校頑張ってね。無理はしないでね、それと」
曲がり角、左を指差しながら立ち止まった彼女、表情は伺えない、言葉を一旦区切って俯いたからだ。それでも沈黙の重たさで言おうとしていることは見えた。
「もう、会わないでおこうよ」
つっかえ棒が取れたみたいに、さっきまでの明るい声とは違う、重たくて悲しげな声だった。初めて聞くものではない。二度目だ。初めて聞いたとき、彼女は震えながら涙を堪えていたんだった。
うっすらと辺りが明るくなった。見上げれば、月が顔を出している。さっきまで奴を覆っていた雲は知らん顔で流れて行く。案外薄情なもんだな。
ぼんやりと見えたイツキの表情、彼女は震えながら涙を堪えていた。
そんなこと言うなよ、思い出すのが辛いのか? 反論したいばかりの心臓がうるさい。だけど駄目だ、正直に口を開けば、また不用意に傷付けることになる。
―好きで好きでたまらないをだろ? 俺のことが大好きで愛してるから離れたくないんだろ?
あの日の僕が、残酷な笑みを浮かべながら放った言葉。ふと脳裏を過ぎって消えて行った。
「分かった。じゃあな、元気でやれよ」
頷きもしない彼女との糸を断ち切るかのように、言い終わらないうちから反対方向へ歩いた。家はこっちのほうではないけれど、とても帰る気にはならなかった。
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