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消せない過去01
 ギラギラと光る太陽から逃れるかのように、僕はエアコンの効いた保健室のベッドで横になっていた。サボリじゃない。本当に具合が悪いのだ。

「橘くん、調子はどう?」

 保健室の先生が若い美人の女性だなんて、ドラマや漫画の話だ。カーテンをそっと開け、すっぽりかぶっていた毛布をめくったのは、もうそろそろ定年退職であろうと考えられる婆さんじゃないか。

「まだ寝てて駄目ですか」

「何言ってんの。もうお昼休みよ。それに、こんなのが一週間も続くなんて」

 一週間前。千笑子ちゃんが《青春部》に入った日から、僕は体調が優れないでいる。違う、身体が変なんじゃない。
 おかしいのは心だ。マイナス思考しか働かない、みんな敵に見える、僕を恐怖の奈落へ突き墜とそうとしている、世界が歪んで見えるようになってしまった。悪いのは僕なんだと分かっているが故に、その考えはますます僕の首を締めた。

「じゃあ帰ります」

 重たい尻をなんとか持ち上げる。いきなり歩いたもんだからぐらりと揺れた頭を抱え、先生が止めるのも聞かずに保健室を出た。待ちなさいな、親さんに連絡して迎えに来てもらったら? だってさ。親なんて来ないに決まってる。僕でさえどこにいるのか把握出来ていないのに。
 教室では日下部が関数について語っていた。真面目に聞いている奴なんてシンジしかいない。席は半分も空いている。もう半分は寝てるか化粧をしているか、べちゃべちゃとくっちゃべっているかだ。
 机から荷物を取り出して鞄に詰める。誰かが投げた消しゴムが頭に当たった。刹那、足の指先からぞわぞわと黒いなにかが沸き上がって来るのが分かった。僕はなにか叫びながら周りの机を蹴り回した。とても興奮していて熱い。だけどどこか、身体の奥か心の奥か、はたまた頭の奥か分からないけどとにかくひんやりしている部分もあった。それが言う。「なにしてるんだろね、馬鹿みたいだ」

「ってーな、なにすんだよ」

 蹴られた机にぶつかった馬鹿が、のそのそとこっちににじり寄る。僕は殴りかかってやろうと拳を奮った。

「おい、落ち着けよ」

 馬鹿の顔には当たらなかった。マサトが止めたのだ。教室の一番隅の席から、シンジの冷や冷やとした視線を感じた。萎えた。
 日下部はこんな状況でも授業を続けている。この程度で止めていたんじゃキリがないからだが、今の僕にはそれがよけいに腹立たしく思えた。
 マサトの腕を振り払い、鞄を担いで走って逃げた。暑さからも熱さからも、逃げ出したかった。
 暑い。怠い。イライラが止まらない。のろのろと真っ昼間の住宅街を歩く。行く宛なんかない。帰りたくない。財布の中身は確か、千円ちょっとくらいしかなかった気がする。ファミレスで気がすむまでコーラでも飲んでいようかと思ったがやめた。ちかっと頭の片隅になにかが甦り、図書館にでも行こうかと思い付いた。普段なら全く行く気にもならないが、なんとなく会いたい奴がいるのだ。
 自動ドアの向こうから、ひやりと冷たい空気が流れて来た。半袖の夏服から伸びているむき出しの腕が、一瞬気持ち良い。
 静かだ。
 蝉の鳴き声からも太陽がじりじり照らす音からも、日常の雑音からも隔離されたような雰囲気だった。
 慣れない足取りでふらふらと二階の階段へ向かう。キョロキョロ見渡してみると、一番奥にはまだ折り紙や色画用紙で作られた作品で飾り立てられている部屋があった。去年の今時期と何も変わっていない。
 その中だけ賑やかで、異世界のようで、さっきまでとは違う意味で現実の世界から遮断されている。甲高い子供の声。その中に一つだけ、落ち着いた声。胸がちくりと痛んだ。慣れた涼しさはいつの間にか、寒気へと変わっていた。気持ち悪い。そういえば水分を取っていない。なにか飲んで来よう。そしてやっぱり、ここへ入るのはよそう。そう決心し、踵を返そうとした時だ。

「おれ、トイレ行くー!」

 急に扉が開き、一人の子供が飛び出して来た。

「あ、待って!」

 男の子を追いかける声。聞き慣れたものだ。小走りで駆け付けたのは、ポニーテールが良く似合う少女。最後に会った時よりも、髪は随分と伸びていた。男の子より少し先に突っ立ってる人物に気付くと、ぴたりと足を止めた。

「あ……ひ、さしぶり」

 無理矢理笑おうとして、失敗したような表情を浮かべた。男の子はとっくにトイレへ姿を消している。開けっ放しの扉の向こうからは、生暖かい風が吹き込んで来る。なにか甘ったるい匂いもする。きゃいきゃいとはしゃぐ子供の声は、止どまることを知らない。

「ん。久し振り」

 たったそれだけ言うのが精一杯だ。顔を見られない。僕は何をしに来たんだっけ。特に目的があったわけじゃないんだけど、なんとなく顔が見たくなっただけだ、でも迷惑なんだろうな。

「……寄ってく?」

 目線をあげる。思わぬ一言。拒絶されるか、無視されるか。どちらかだと思っていたから、受け入れられるなんて、意外だった。

「じゃ、少しだけ」

 気分が楽になったのが手にとるように分かった。いつの間にか入れていた肩の力が、知らないうちに抜けていた。少女も自然な笑みを浮かべていた。ちょうど僕が部屋に入ろうとした時、男の子がトイレから戻って来た。

「イツキ姉ちゃん、この人だれー?」

 イツキ。彼女の名前。僕以外に下の名前で気安く呼ぶ奴がいたなんて。子供だから仕方ないのかもしれないけど。

「……お友達」

 イツキは苦笑し、まだ濡れていた男の子の小さな手のひらをハンカチで拭きながら言った。

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あきゅろす。
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